=You're in Motion=







十一月に入り冬の気配をゆっくりと感じさせる日が続いていた。


しかしながら大宮支部に於いては、連日ある種の緊張状態が持続しており、冬の訪れすら感じている場合では無い状況下にあった。

それは指令所内も例外では無く、常時厳戒態勢が敷かれているのがその証拠だ。

それもその筈、敵対関係にあったキトラルザス陣営のエージェント・ゲンブが自ら対話交渉を希望し、大宮支部に単身姿を現したのだ。

現時点でこの国の政治的にも、そして安保理の立場的にも混乱を引き起こしかねないこの事態。

本来ならば内閣府まで一気に報告が上がる所を、出水の素早い機転で「超進化技術に関する機密情報の外部漏洩防止の為」というお題目に見せかけて

彼の存在自体を秘匿対象とした。

そして彼をこの支部内へ包括的処置として「門客」という身分で招き入れることと相成った。





「しかし、呑気にこんなことしてていいんですかね?」

午後七時、いつもの整備場で出水指令長とキャッチボールに興じる本庄は懐疑的な声を上げた。

「こういうのはね、焦って動く方が悪手なんだよ本庄」

勝負師のお前だったらその塩梅が分かるだろうと出水指令長はボールを投げ返してくる。

「まあ、そうなんですけどね」

一死一塁二塁の場面でホームアウトに見せかけて三塁を刺す変則併殺打をかます騙しのアレですね、と応えれば指令長は満足気にいい例えだと笑った。

「上には話を通した。あとは総指令長が我々の為に踏ん張って盾になって下さるだけだ」

その口ぶりから、幹部連中に問答無用のゴリ押しで事案を通した状況が目に浮かぶ。そういう極道なやり口を平気でやってのけるのがこの上司だ。

しかし事が大きくなり、いずれ国会の証人喚問まで持っていかれたらどうするつもりなんだろう。

その時は総指令長に辞職覚悟で泣いて頂くしかないのだろうか。傍目から見ても割と悪どいやり方だ。

「丸投げ感が凄いっすね指令長、カードの切り方がえぐい」

しかしながら、いつも現場が泥を被っている事態を思えばこのような指令長の行動を支持してしまう。使えるものはとことん使う、

こういったアウトローな感じも本部から少し距離を置いた大宮支部の強みなんだろうなと思っている。

そんな一枚岩になりきれない組織もなかなかどうしていかんともし難いが。

「ま、総指令長が踏ん張り切れなかったら今頃ここには某省庁の超怖いお兄さん達が押し掛けてきてるだろうな」

「あー、あの話に聞く所の猟犬集団って言われてる部署ですか」

随分解ってきたな、と指令長は腰に手を当てて意味深な物言いをする。

「俺も先遣り組位しか見たことないけど。まったく、官民一体も善し悪しだよな」

せめてお茶くらい出してあげましょうかと馬鹿みたいな冗談を言いながら、チェンジアップを投げ返す。

「あとは未来の希望達に縋るしかない」

現状で交渉を許しているのは子供達だけだからな、と指令長は少し表情を硬くする。

「その間、何があっても監視対象を含め彼等を全力で守るのが自分達の仕事って事でいいんですよね」

「そういうこと」

お前は話が早くて助かる。そんないつもの口癖をこちらに投げかけた指令長は、

手の内にあるボールも次いで投げて返してきた。それをことも無くキャッチした、つもりだった。

ボールを捕らえた直後、グラブを結ぶ紐の部分が衝撃に耐え切れずに次々と千切れて、グラブ本体が勢いのままに分解した。

「うわっ! なんだこれ」

見るも無惨にグラブは左手の中でバラバラになり、捕球し損ねたボールは足元に落ちて虚しく後方へと転がっていった。

「大丈夫か本庄!」

慌てて駆け寄る指令長に、見事に泣き別れてしまったグラブを見せながら謝罪した。

「すみません指令長、手入れしていたつもりでしたが……すぐ弁償します」

「いや、それは気にするな本庄。それより怪我は無いか?」

自分の怪我に対して過敏な反応を示す指令長の過保護振りは、ここ数ヶ月で確実にランクアップしつつある。

事実、うっかり指令所内でもその片鱗を見せそうになるので大変注意が必要だった。

左手を振って自分は大丈夫だとアピールをすれば、やっと穏やかな顔に戻ってくれる。

「八年間何もせずに放置していたんだ、きっと経年劣化だよ。気にするな」

「皮製品ってサボるとすぐ出ますよね」

そういえば、実家に置いたままのグラブ達は今一体どうなっているだろう。確か使う用途も無く、きちんと手入れして後生大事に収めてある筈だ。

「あの、もし使えたらの話なんですが。僕の使っていたグラブを寄付してもいいですか?」

「いいのか、本庄。思い出というか、その何と言うか」

言い淀む指令長の言いたいことは、自分の怪我関連のことだと何となく分かる。

しかしこの件に関しては、指令長に全て話したおかげで自分としてはかなり吹っ切れてしまった。

今はもう前を向いて歩いていける、やっとのことで新しい可能性へのスタートラインまで辿り着けたのだ。

「もし試合がまたいつかあって、ここで使って貰えたらグラブも喜ぶと思います」

「そうか、助かるよ。ありがとう」

そう何気なく笑ってくれる指令長の顔を初めて可憐だと思った。なんだろう、その場を取り繕うような作った顔では無くごく自然な笑顔がこんなに美しい人だったのかと。

彼に向ける恋慕という色眼鏡も入っているかもしれないが、純粋にただそんなことを思った。

「明日の休みにでも取りに行ってきます。とりあえず今日はもうお開きですかね」

「じゃあ、一杯付き合え」

「喜んで。ご馳走になります」

散り散りになったグラブの欠片を二人で拾い集めて場内を清掃し、その日は40球余りで終了した。

外に出てやっと外気に触れた時には、既に気温は一桁台となっていた。

その強烈な寒さのせいか、打ち合わせもしていないのに互いの足は駅前にある大根が美味いおでん屋へと真っ直ぐに向かっていった。





次の日、午後から久し振りに町田の実家へ戻った。

帰省は盆明け以来なので、念の為に駅で買った土産を母親に渡してそれとなくご機嫌を伺う。

挨拶もそこそこに二階にある納戸へ向かうと、早速目当てのグラブの在りかを探し始めた。

確かこの辺りに収めたと記憶している場所には、案の定黒い三つの袋が行儀良く並んでいる。

中身を確認すると何れも保存状態は良く、ありがたいことに痛みやカビの類いはどこにも見られなかった。

まるで9年前の止まった時をそのままそっくり閉じこめて眠っていたようなグラブ達だ。

正直またこうして日の目を見るとは思いも寄らなかったので、どこか感慨深いものがある。

「母さん見つかったよ、ありがとう」

袋に入ったグラブを抱えて階下に降りると、母親が大きめの紙袋を用意して待っていてくれた。

「あんた、また野球始めるの? 右腕はどうなの?」

不安気な表情でこちらを伺う母に、最近医者に行った件を簡潔に伝えた。

「グラブはね、会社で野球好きな人に使って貰おうと思って」

それもいいんじゃない、と母はあっさりと味気無い返事をした。

あの怪我の件以来、我が家では野球関連の話題はすっかり薄れてしまっていた。むしろ、腫れ物に触る扱いの事案と言っても良い。

それだけ家族に気を遣わせており申し訳無いような残念なような、複雑な気分になってしまう。

「それはそうと、今度の正月くらいちゃんと帰って来なさい。お父さんったら何も言わないけどああ見えて心配しているのよ」

そういえば就職してここ数年、まともに正月に帰った覚えがまるで無い。指摘されて初めて気づいた事実だ、

そりゃインフラ関係の会社に勤めているのだから仕方ない。尚且つ転属先研究所も正月だろうと御構い無しに指令業務があるのだから、

それはどうしようもない。

「もー、シフトが合えば帰るから。

ハルナ姉ちゃんとこの家族と、あと親父にもそう言っておいて」

そう言い切った帰り際、近所で貰ったという美味い海苔の缶を三つも土産として渡された。

独り暮らしだからこんなに貰っても仕方ないのに。果たして指令長に持参したら召し上がってくれるだろうか、

今度伺ってみようと心に留めてグラブを入れた紙袋へ一緒に入れ込んだ。

不義理な話、滞在時間の最短記録を更新して実家を早々に後にした。

高校からほど近い実家は、怪我のこともあって良い思い出があまり無い。大学進学を機に無理矢理家を出て、今現在寮暮らしをしているのもそのせいだ。

特殊なシフトで勤務している為に実家から通う事が出来ない、というのは単なる言い訳に過ぎない。

九年も経てば変わる街並みはどこか味気なく、同じ様な外観の白いマンションばかりが乱立している。

懐かしい匂いはほぼ一蹴され、四角い町へと静かに変貌を遂げる。都市開発が進むとはこんなものだろう、そう見回しながら駅に向かった。

もう一つ角を曲がればメイン道路に沿った道に出られる、そんな道すがらだった。

メイン道路側からやって来た帽子を被った男性とすれ違った際、不意に呼び止められた。最近こういうことが多いような気がするのはどうしてだろう。

「本庄、だよね?」

帽子を取ったその顔は、最早会うことも無いと思っていた男。いつもテレビの向こう側にいる人物だった。

「え、深谷。深谷なのか!」

ジーンズに皮ジャケットというシンプルな格好の元相棒は、久しぶりと歓声を上げて笑いながら何の前触れも無くいきなり熱い抱擁をしてきた。

唐突な触れ合いに戸惑い、思わず持っていた紙袋を落としてしまう。

「おいちょっと、あの、人前!」

自分より頭一つ大きな彼に抱きすくめられ、身動きが取れずに大きな声で訴える

「あ、すまない。痛かった?」

背に回した腕を緩めて深谷はこちらを覗き込む。至近距離で見る顔は日に焼けているとはいえ相変わらず甘いマスクで、

高校以来更に磨きがかかっているかのようだ。女性野球ファンの多くを魅了しているその細面が、男としては羨ましい限りである。

「そろそろ離して貰えるとありがたいんですが、深谷さん?」

はいはい、と腕の中から解放される。やはりプロ選手だ、身体の造りが一般人とはまるで違う。

着ている服越しにも分かる彼の筋肉に、我が身の衰えを実感した。

「深谷の実家はもう一駅隣だよね、どうしたのこんな所で」

「ちょっと用があってね、お前の家訪ねようと思ってたんだよ。そうしたら丁度お前がいてさ、いやーラッキーだわ」

喜ぶ彼とは対称的に、はあ、と間抜けな返事を一つする。正直、あんな別れ方をした相手とこうも能天気に触れ合えるものかと感心してしまう。

それだけ彼の方が割り切った大人になったと言えば、そうなのかも知れない。

「あれ、何これ。グラブじゃん! 本庄、また野球出来る様になったのか」

まずい。

取り落とした紙袋からグラブが入った袋が丸見えになっている。各々黒い袋には野球用品メーカーの印字がされており、

シルエットからしてもそれがグラブそのものだというのは一目瞭然だった。せめて上部が閉まるバッグに入れておけば良かったという後悔は先に立たず。

とにかく話題を広げない方向で話を進めるべく、頭を働かせた。

「今さ、一生懸命回避する方法考えてるだろ」

「あ……いや、その」

流石元相棒だ、自分の考えは手に取る様に分かるらしい。

「治ったの? 右腕」

彼の真っ直ぐな目で捉えられると、どうにも嘘がつきにくい。正直に、治ったが実力は三割程度しか戻っていないことを伝えると、

ほっとした様な残念そうな顔で「そうか」と頷いた。

「ここで立ち話も何だし。深谷、時間あるなら駅前でコーヒーでも飲む?」

「了解」

俺がプロじゃなかったらキャッチボールしたかったんだけどな、と深谷は苦笑いする。

確かに、ややこしいプロ野球規定に引っかかると面倒なのでそれだけは彼の為にも回避した。

「じゃ、久しぶりにそこまで走ろう」

「ええ! やだよ」

深谷は置いたままの紙袋を掴み上げると、有無を言わさず自分の右手を軽く取り昔馴染んだ道をランニング程度の速度で駆け出した。

あの頃の懐かしくも切ない感覚が蘇り、彼の背中を見ながら思わず赤面した。





小田急駅前にあるコーヒーショップ手前まで走りきり、屋外の景色がよく見える奥のカウンター席でようやく落ち着いた。

ランニングは下半身強化の為に続けているものの、やはりプロの速度について行くのがやっとだった。

温かいコーヒーを頼む予定が、冷たい果実入りのフレーバーティーになってしまう程には体が温まっている。己の体力の無さをつくづく実感してしまう。

当の深谷は息切れもせずに、やたら甘い期間限定のフラペチーノを注文してご満悦の様だ。自分の右手側に並んで座り心底嬉しそうに味わっている、

こういう甘党な所も昔から変わっていないようだ。

「腕治ったなら尚更やればいいのに」

「そりゃね、本音を言えば『野球やるだけでいいなら』やってみたいよ」

所在無くストローを摘んでカップの中に入った果実を掻き回す。

「でも、野球辞めてからの会社勤めとかどうするんだよ。社会人野球だって辞めても希望部署には行けないんだ。今の僕にはリスクが高すぎる」

「現実的だなアカギは」

久しぶりに名前を呼ばれて心臓が跳ね上がる。彼にそう呼ばれるのが本当に好きだっただけに、

再びカップに視線を落として黙ってストローをくわえる。

「ま、確かに個人事業主だからな俺達は。税金対策とか色々、金だけは絶対に貯めておけって先輩からも散々言われてるしな」

世知辛い話だが、野球選手の引退後はなかなか再就職が難しいことで知られている。解説などの仕事を得られるのは極一部のスター選手のみであり、

残りの選手は球団職員・飲食業・指導者・一般企業等へ就職の道に分かれる。自分がどういうスタンスで選手をやってきたか、

そういった面が後々将来に関わることが大きい。

プロ野球とは一見して大金が動く華やかな業界だが、その裏で弛まぬ努力としなくてもよい苦労の連続が待ち構えている、そういう所だと自分は理解している。

「でもな、野球って面白いからやめられないんだよな」

引退しても野球に関わりたいよ、そう笑う深谷は根っからの野球小僧だ。そんな彼を今はただ羨ましく思ってしまう。

「ところでさアカギ。あの約束覚えてる? プロで成功したらお前を嫁さんにするって話」

また凄いタイミングで話を振ってくる男だ。というか忘れてなかったのか、こんな恥ずかしいことを。

「まだ覚えてたのかよ」

「プロで食っていけるようになったんだ。ねえ、返事聞かせて」

間を取る為に中座しようとした右腕を軽く捉えられてしまう。見れば深谷は鋭く射抜く様な視線をこちらに向けている。

それはまるでこちらの正確無比な変化球を待つ、キャッチャーマスクを被った時の彼を思い起こす眼だ。

「男同士で結婚出来る訳ないだろ、ばーか」

「常識的な話をしてるんじゃないんだ。パートナーとして迎えたい」

その眼差しは自分を捉えて離さない。二重で切れ長の涼やかな目元、そして油断すると籠絡されそうな蠱惑的な瞳は

指令長のそれとは違った術策を含んだ色気に満ち溢れている。そんな目で試合中見られている投手達は一体どんな思いで彼に投げているのだろうか。

「……困る、そういうの」

「どうして?」

「好きな人、出来たから」

「お前が好きなのは俺だけだろ」

「……ごめん」

暫しの沈黙の後、突然深谷は耐えられないとばかりに吹き出して声を抑えながら笑い始めた。どうやら昔の様にからかわれていたらしい。

「なんだよ、また試したのかよ! もーそういうの止めろつってんだろバカ!」

「すまん、お前のめちゃめちゃ可愛い顔もう一回くらい見たくて」

前とちっとも変わらない、と笑い続ける深谷の後頭部を忌々しげに叩く。さりとて笑いは止まらず、机に顔を伏せて肩を震わせる彼に呆れ果てた。

「お前絶対にいい死に方しないぞ」

「大丈夫、死ぬ時はウチのかみさんの膝枕って決めてるから」

その一言に驚き、今一度問い直す。

「結婚、してたの?」

ああ、と笑い涙を拭いながら深谷は顔を起こした。そして手持ちのバッグから白い封筒を取り出し、自分の前に提示した。

「今シーズン終わって直ぐ入籍したんだ。式は一月の終わりに予定している、もし良かったら……祝って欲しいんだ」

美しい毛筆で自分の名前が記された封筒は固くて厚みがあり、その中身が招待状であることは確実だった。

裏側に印字された新婦の名前には見覚えが無く、彼が言うには二年前に合コンで知り合った一般女性ということらしい。

合コンで可愛い女の子を一本釣りできるなんて、やはり彼のルックスの良さをつい妬んでしまう。

「もしかしてこれを渡す為だけに来たのか?」

そうだよ、と深谷はこともなく笑う。彼の多忙なスケジュールを想像すれば申し訳無い気持ちで一杯になる。

恐らく秋季キャンプの少ない休みを潰して九州から東京に戻ってきたのだろう。

「電話で良かったのに」

「式の前までに、お前の可愛い顔直接見たかったんだよ」

「またそういうことを言うー」

何故だろう、彼を祝いたい喜びの中に一欠片の刺す様な寂しさを感じてしまった。いつまでも彼が自分だけの捕手だと

心の隅で自惚れていたのか、一体どれだけ未練たらしいのだろう。

そんな手前勝手な感情を沈め込み、精一杯の笑顔で応える。

「おめでとう深谷、奥さん大事にしろよ。結婚式は必ず出席させて貰うから」

奥さんの晴れ姿がめちゃくちゃ楽しみだと言えば、俺はどうでもいいのかよと突っ込み返される。

そうだ、このやり取りでいいのだ。

「それで申し訳無いんだか本庄、当日の受付をお願いしてもいい?」

「いいよ、何度かやったことあるから大丈夫」

そりゃ助かる、と深谷はほっとした様に顔を緩ませる。

「うちの球団関係者かなり呼んでるから、テンション上がるかもよ」

そうだった。彼はプロ野球選手なのだから上司や先輩、同僚を呼ばない訳が無い。他球団の選手も来るのかと聞けば、

こっそり耳打ちで招待客を告げられた。思わず椅子から転げ落ちそうになる程のラインナップに、人目も憚らず悶絶しそうになった。

「やばい、ちゃんと受け応え出来るか不安になってきた。いかん楽しみ過ぎる、やばい。当日まで頑張って生きるわ」

「お前も大概野球バカなんだな……」

生暖かい視線を向ける深谷を他所に、ただひたすら血圧を上げて悶える只の野球ファンがそこにいた。





あれから他愛の無い野球談義を続け、店を出たのは夕方五時を回った所だった。夕暮れ時を過ぎ、

駅周辺は既に夜の街を装い始めている。

タクシー乗り場の近くまで深谷と歩き、十人程度の列の最後尾で順番を待つ。こんな時間にも関わらず列待ちの回転は早く、

これならすぐに彼を乗せられそうな雰囲気だった。

「羽田まで行くけど、ついでにどこかで降ろそうか?」

「いや、小田急で新宿まで出るからいいよ」

その方が早いか、と彼も納得する。

「なあ本庄」

「ん?」

「お前の好きな人って、その、いわゆる『日本で結婚できる人』なの?」

遠回しに男か、と聞かれた。

それにどう応えるのがベストか。瞬時に出した答えが意地悪くて、つい一人で笑ってしまう。

「なんだよ、何笑ってるんだよ」

先頭まで来て、深谷はタクシーに乗り込もうとする。寸前、彼の肩を素早く捕まえて左耳に囁いた。

「お前よりいい男の、キャッチャーだよ」

驚愕の表情を貼り付かせて固まったままの深谷を後部座席に詰め込み、出して下さいと運転手に促す。

彼を乗せた小型タクシーは赤いテールランプの軌跡を残し、やがて幹線道路へと消えて行った。

「さて、帰りますか」

これ以上無い位に上機嫌で小田急線の駅へと向かう。久しぶりに仕掛けた勝負に勝つのは清々しい。

あとは来たる式の件で、指令長に自慢しまくることだけをひたすら考えていた。





その二日後の午後七時、キャッチボールの前に実家から持参したグラブを指令長に見せた。

「高校の時のやつです、三つをローテーションで使ってました」

「これ本当に九年前のもの? 綺麗だな、驚いた」

一昨日からメンテナンスし直したからですと笑うと、指令長は手に取りゆっくり眺めながら「皮の状態からしても良好に保管されていたものだ」と褒めてくれた。

「ちなみに、こいつが怪我した時まで使っていたグラブです」

三つの内、一番黒くて美しいグラブを左手に装着する。やはり自分にしっくり馴染んだグラブはいい、まるで手の様な感覚だ。

「その、怖かったりしないのか?」

「使っていたらまた怪我するんじゃないかって縁起的な話ですよね。何しても人間怪我しますから、道具はあまり関係ないかと」

「すまん、それもそうだな」

俺としたことが、と笑う指令長は明るい色のグラブを手に取り左手に嵌めて具合を確かめている。

「お前のピッチャーグラブ、ちょっと大きいな。腕の角度を隠す為か?」

「そんな所です。でも僕はフォーク以外どの球も角度変えない投げ方をしてるから、大きくしてもあまり意味は無かったです。単なる安定感ですかね」

ちょっと試しに投げてみますね、といつもの距離を取って指令長に緩いカーブを投げる。

「うわ、捕りにくい」

指令長は珍しくよろめきながら捕球する。辛うじてボールはグラブ内に収まったが、指令長は危うく転けそうになった。

辛うじて二三歩前にステップを踏んでバランスを取りなんとか踏み止まる。

「大丈夫ですか指令長!」

「ごめん本庄、グラブ使うの久しぶり過ぎて捕球の仕方を忘れていた」

ミットとグラブは指を入れる箇所によってまるで構造が違う。それにより力の入れ所も勿論違ってくる。

普段からキャッチャーミットしか使っていない指令長には本当に悪いことをしてしまった。

「でもいいなこれ、しっかり使い込んである。これで野手練習もしようかな」

「ショートやってる指令長とか、無茶苦茶かっこいいです」

個人的に見たいです、と熱烈に希望すれば「もうおじさんだから二遊間は足がもつれて補殺できないよ」とグラブを外して肩を竦めた。

「……キトラルザス種族も野球を教えたら出来るかな」

指令長の唐突な謎発言に、思わず驚愕の声を上げる。

「いや、確かにエージェント・ゲンブにはここ数日色々体験して貰ってますが……野球は……」

ルール面倒臭いですよね、と我ながらそこは違うだろうという返しをしてしまった。

「せめてキャッチボールの面白さ位は理解出来るんじゃないかな」

顎に手を当てて真剣に考えている姿は、きっとまた妙な思いつきをしている最中なのだ。そしてその犠牲になるのは決まって目の前に居る自分である。

「なんかするつもりですね」

「ようやく子供達以外にも話が通じる様になったんだ、明日掛け合ってみるか。お前も来い、本庄」

「マジですか!」

折角質の良いグラブも増えたことだし、と指令長は大真面目に応えた。ああ、なんというかエージェント・ゲンブも

いきなり野球を教えられるなんて災難だ。果たしてキトラルザス種族に娯楽の概念があるか、そこがまず問題ではないだろうか。

しかしながら、こちらの世界に来てまず最初に覚えるかも知れないスポーツが野球だなんてちょっと嬉しい。

「少しでも楽しいと思ってくれたらいいですよね」

「そうだな。身体能力高そうだから、四番DHとかやらせたい。3割2分3厘くらい打つだろう」

「彼は思い切りメジャーリーガー体型ですよね。どんなコースでも打ちそうで怖いです」

J.D.マルティネスみたいな、と上げれば「お前はメジャーまで網羅しているのか」と呆れられた。たまに気付いた時に見る程度ですと誤魔化したが、

実際は平日休みシフトだと早朝からがっつり衛星放送で観戦している。

あちらの戦術はまた日本のものと違った面白さがあるので、それはそれで楽しいのだ。

「いつかバッセンにも連れて行きたいな」

「バッティングセンターですか。目立ちまくりですよ、彼」

「いいんじゃない? どうせなら全部場外に打って貰おう」

そんな馬鹿みたいな冗談を交わしながら、指令長はこちらにボールを投げ返してきた。




しかしそんな日が永遠に来ないことを、次の日の激戦で思い知らされることとなる。





一旦地底に戻った彼は変わり果てた姿でこの世界に再び襲来し、我々に対して暴虐の牙を剥いた。

覚悟も無く戸惑いながら交戦すれば次第に劣勢となり、その圧倒的強さを前に運転士達は無力だった。

やがて戦局は困難を極め決戦戦略すらも崩壊し、

遂に喉元に白刃を突き付けられる寸前にまで追い詰められる。しかし僅かに残った彼の理性が、

自分を討てと現してはならない筈の弱点を目前に晒した。

後に思い返すだに、己の命を賭したその行いは彼が残した最後の「小さな希望」への手掛かりだったのかも知れない。



そして、我々は彼を討ち取らざるを得なかった。







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