今年の大宮支部大忘年会も無事終わった十二月初旬。午後八時も過ぎ、幹事役を無事務め終えた私こと三原フタバは、

身支度を済ませると二次会組の合流先へ急いだ。エレベーターホールで待っていてくれた指令所仲間の中に、

つい先程まで話をしていた本庄さんの姿が見えないことに気付いた。

「あれ、本庄さんは?」

「さっき指令長に引っ張られていったよ」

今日くらい離してあげればいいのにね、と三条さんは苦笑いする。

そういえば彼らが連れ立って飲みに行く姿を普段からよく見かけていた。研究所を出る長い廊下にて、

指令長が決して職場では見せない柔らかな笑顔を彼だけに向けていたのがなんとなく印象に残っている。

一時期、二人は恋人同士ではないかという風聞も所内にはあった。本人達はとても迷惑そうに否定していたが、

あの親密な空気を思い出す度にもしかしたら見えない所ではそうなのかな、と想像したこともある。

「そっか、残念ですね」

「指令長すっごい呑むよね、あれにつられて二次会で呑む子が毎回出るから怖かったんだ。

今年は本庄君が引き取ってくれて助かったといえばそうなんだけど」

「そ、そうなんですね」

指令長の恐ろしい程の酒豪振りは話に聞くが、真近で体験しなくて良かったと胸を撫で下ろしてしまう。

「最近まで大宮は色んなことがあったし、指令長も本庄君になら言い易いことがあるんじゃない」

エージェント・ゲンブの事件は所内に大きな爪痕を残した。その後始末に奔走されていた指令長の背中をただ見ているしかなかった自分は、

改めて無力だと感じた。気ばかり焦っていた時期、本庄さんについこの虚しさを打ち明けたことがある。

『そうだね。自分の出来る範囲の話で、今出来る最善のことをすればいいんじゃないかな、って僕は思うんだけど』

相談した当初はなんて呑気すぎる先輩なのだと呆れた。曖昧な礼を述べてその場をやり過ごしたが、

内心相談相手を間違えたかと後悔していた。

しかし後になり振り返ってみると、それは大局を見据える者ならばごく当たり前に行き着く思考だった。

焦るばかりの自分にはそれが全く見えておらずその真実に気付いた時、彼との場数の違いを思い知らされ自らの行いを恥じた。

指令長が何故彼を近くに置いているのか、なんとなく分かってしまったような気がする。

「三原さん、行きますよー」

小山さんの呼び声に思案から解放されて、慌ててエレベーターに乗り込む。

二次会は美味しくて可愛いスイーツが自慢のお店と事前に聞いているので、とても楽しみだ。

そう思考を切り替えるべくゆったりと下がりゆくガラス張りの向こうの夜景を目に映した。





「で、なんで僕だけ大宮のバッセンに居るんですかね……」

バッティングセンターのフロントで購入した専用コインを握り締めながら、本庄は怒りに震えた。また性懲りも無く指令長の甘言に騙され、

うっかりこんな所にまで連れてこられてしまったのだ。

未だに彼との駆け引きに勝てない我が身が心底情けなくもあり、相変わらず悪どいやり方を続ける指令長を恨みがましく思う。

我が身の欲の為ならばあらゆる手段を使って我を通す、この性格の悪さはどうにかならないのだろうか。

「一度お前と来てみたかったんだよ、バッセン」

鼻歌交じりに奥のレーンへと進んでいく指令長の足取りは軽い。ああ今頃二次会の皆んなは楽しんでいるんだろうな、という恨めしさをその背にぶつけたくなる。

休日ともなると九つあるレーン全てが埋まり順番待ちが生じるこのバッティングセンターは、大宮に於いては比較的人気が高い店だ。

深夜営業もあり、自分も行きつけにしているので実のところを言えば勝手が分かってありがたい。

午後九時を過ぎて客は自分達を含めて四人だ。入場した当初から金属バットの打撃音が広い場内に規則正しいリズムで響き渡っている。

「よりによってなんで忘年会の後なんですか」

「見ての通り、この時間帯は人少ないだろ」

そういう問題じゃないだろうと憤りたかったが、騒いで他の客の迷惑になってはいけないので辛うじてそれを呑み込む。

「なあ、名古屋で打ったホームランの打ち方を教えてくれよ本庄」

防護ネットに囲まれたバッターボックス後方にあるベンチに鞄を置くと、指令長は早速トレンチコートと次いでスーツの上着を脱ぎ始めた。

「その前に指令長の打撃フォーム教えて下さいよ。見ないとどこをどうしたらいいか分からないです」

よしきた、とワイシャツを肘まで腕捲りした後で彼が鞄から取り出したのは黒いバッティンググローブだった。

「うわでた! 用意周到の代名詞、出水シンペイ」

「うるさいよ本庄。ほら、お前のもあるぞ」

遠慮なく打ちまくれ、と白いバッティンググローブを投げ渡されて、なんとも言えない顔で受け取る。どうやら最初からここに来るつもりだった様である、この人は。

「本庄、悪いけどスニーカー貸してくれ。革靴だと滑る」

キャッチボール時には革靴なのに、こういう時は本気になるのかと指令長の謎の基準を知る。靴を交換すると少しだけ彼の革靴の方が小さい気がした。

「僕の大きくないです?」

「滑らないからまだましだ。コイン頂戴」

取り敢えず二枚渡すと、指令長はバッターボックスの傍にある操作パネルに向かった。コインを投入して球速を選択し金属バットを手にすれば、

その雰囲気は会社帰りのサラリーマンから野球選手っぽい雰囲気を醸し出す。

意外なことに指令長は利き手とは違う左打席に入り、オープンスタンスの姿勢で投球を待った。

「左打ちっすか、かっこいい」

まあね、と短く応えた指令長はボールの出処を見据える。

ゲームが開始された瞬間、タイミングを合わせる様に右足をゆっくり上げて軸足に体重を乗せ、トップで一瞬溜めた後に振り切る。

乾いた打撃音と共に打球はライナー軌道を描いて前に鋭く跳んだ。うまいな、という感想しか出てこないスイングだ。

それから24球、ほぼ無駄の無いバッティング姿勢で全て打ち切った指令長は「如何でしょうか」とグローブを外して額の汗を手の甲で拭いながらベンチに戻って来た。

お疲れ様ですと労いながら右手を上げて迎えれば、同じく右手で軽く叩き合って応えてくれる。小気味良い音が心地良くて、思わず互いに笑顔が溢れる。

備え付けのおしぼりを渡しながら、彼に先程の25球について率直な感想を述べた。

「めっちゃ綺麗なフォームじゃないですか。別に直す所無いですよ?」

「でもホームラン1本も打てなかったぞ本庄」

眼鏡を取って汗を拭いながら、指令長は少々不満気な声を上げる。

言われてみれば確かに打席は全てライナー性の当たりばかりで高くは上がっていない。彼に球速を確認するとストレート120kmに設定したらしく、

速球打ち出来る打撃センスに関してはそう悪く無い筈である。

「うーん、ちょっと僕のを見ていて下さい」

彼にスニーカーを返して貰い、着ていたダウンとニットを脱いで七分袖インナーだけになる。

そして大人用の金属バットを手に右側のバッターボックスに入るとまずは踏み込み具合を確めた。

そこはいつもの様に滑り止めが効いており、特に問題は無さそうだ。

指令長から借りたバッティンググローブをはめて見ると、これが新品だということにやっと気づいた

。この人は余程一緒に来たかったんだろうという野球愛と意気込みをそこから感じてしまう。

「じゃあ、同じ120kmの条件でやってみますね」

操作パネルで球速を選択して投球を待つ。左足をホームベース側に近づけるクローズドスタンスで構えると、

フォロースルーをとることに意識してバットを振る。打球は鋭い打撃音と共に遠くへ打ち上がり、かなり上部にあるホームランの的を掠めた。

「あー、惜しい」

すかさず打撃フォームを構え直して次の直球を仕留める。25球中ほぼ全球が高い軌道を描き、その内の四本が的に当たった。

後でコインが貰えると喜びながらベンチに帰ると、指令長はただひたすら驚きの表情を見せるばかりだった。

「どうなってるんだ本庄」

「えーと、なんですかね。まぐれ」

「なんなんだそれは」

笑いながら新しいおしぼりの袋を開けて、指令長の隣に座る。

「指令長の打ち方はとても綺麗で僕は凄く好きです。だってトップに持ってくる力加減もいいし、振るタイミングとか上手いし体重移動も滑らかですね」

「中学以来このスタイルで通しているからな」

「だとしたら、問題はインパクトの瞬間ですかね。中学ではあまり直さない人もいます、最近はどうか知りませんけど」

指令長に再びスニーカーを履かせて、今度は一緒に打席に入る。そういえば辺りを見回せば今の所客は自分達だけになってしまった様なので、これなら遠慮無く話が出来そうだ。

「もしかしたら指令長は打つ時に力を入れ過ぎているのかも知れません。腰の回転が思ったより良くないのが原因かも、です」

「え、そうなの?」

「離れてますから、何回か振ってみて下さい」

恥ずかしいな、と言いながら指令長は素振りをする。思った通り、力が入り過ぎて固くなっている箇所がある。道理で後ろから見たら分からない訳だ。

「逆打席ですが、僕の動き見ていて下さい」

意識的にスイング時をリラックスさせた様な動作で振る。

「そんなに緩くていいのか?」

「振り出しはリラックス、腕で振るのではなくて腰の回しで振る。ボールに当たるインパクトの瞬間にだけ握りに力を入れるんです。こう、ガッと芯に押し込むみたいに」

バットを横に立てかけて、スイング動作だけを行う。見ただけでは今ひとつ分からない様なので、動作時の腰の運びを触って確かめて貰うことにした。

「熱血指導ですね本庄先生」

「指令長はホームラン打ちたくないんですか?」

そう冷たく言い放てば「すいませんでした」と指令長はしゃがんで自分の腰を掴む。端から見れば結構間抜けで滑稽な格好だが、割と分かりやすいと思う。

二三度動作を繰り返し、こうですよとポイントを示せば納得した様に指令長は声を上げる。

「暫く練習しないと掴めないかも知れませんが、腕で力入れ過ぎて振るスタイルから腰からいくポイントで絞る型に変えると劇的に違いますよ」

「分かった。ちょっとやってみるから見ていてくれ」

さぼらず律儀に練習する辺りがこの人らしい。操作パネルをセットして、再び指令長は打席に立ち打球に向かう。相変わらず綺麗に打ち返せるが、

やはり軌道はライナー性になる。しかし三本に一本の割合で打球は鋭く高い軌道を描き始める。ラスト五球は全てホームラン軌道に近いものになっていた。

「えー! 指令長凄い! 流石、大宮支部の四番」

人が居ないのをいいことに手を叩いて褒めまくる。

「もっと褒めてもいいんだぞ、本庄」

自慢気な態度で指令長はベンチに戻って来る。その順応性の高さには驚くばかりだ。

「失礼ですが、指令長の年齢くらいの方でこんなに早く修正してくる人っていません。本当に凄い」

「お前の教え方が上手いんだよ、やっぱり観察眼が優れているな」

「仕事に活かせてないのがアレですけど」

指令長は少し真顔になり、バッターボックスの向こう側を遠く見つめながら呟いた。

「お前は七月からずっと成長してきたと思うけどね」

「恐縮です指令長。よかったらもっと褒めて下さい」

「調子に乗るな本庄」

額を軽く叩かれる動作もここ半年でもう慣れてしまった。笑いながらもう一ゲーム行ってきますと立ち上がり、又もや靴を交換して打席に向かった。

ここまで熱を入れてしまうと、二次会に行くよりこっちで良かったなとこっそり思う。この人と居る時間が本当に楽しい、

誰かと時間を共有することに意味があるのをこの人が再び教えてくれたのだ。

それだけでも分かって良かった。

「十本ホームラン打ったら、ジュース奢って下さい」

「なんだ、そんなもんでいいのか」

もっと欲しいものは別にあるのだが、それはまだ言えない。

「今回から140kmでいきます」

やるねえ、と指令長は自分の顔を指して笑う。

今迄以上に集中して打席に立ち、一度深呼吸をする。初球から流れる様なスイングを意識して、軽快な打撃音と共に打球を高く遠くへと運んだ。





結局、互い100球程度打ちまくりほぼ体力を使い果たした状態で今夜はお開きとなった。時刻は午後十一時をとうに過ぎており、

明日が休みだからといって少々羽目を外し過ぎた。

タクシーも呼べない中途半端な距離なので寒空の下を二人で大宮駅まで歩き続ける。途中で指令長が買ってくれた缶コーヒーがカイロ代わりになって、

薄手のダウンジャケットのポケットに入れればほの暖かくてありがたい。

「しかし、その辺のサラリーマンが100球打つものじゃないな。球団の秋季キャンプじゃないんだから」

「明日筋肉痛ですよ、本当。マジでやばいっす」

「お前はいいよな本庄、明日なんだから。俺なんか明後日が恐怖だ」

「え、それって?」

「四十代を舐めるなよ本庄、年寄りは明後日にくる。そして驚く程辛いんだ」

そんなことをドヤ顔で言われても困るのだが。

「帰りにコンビニでプロテインゼリー買って帰りましょう。あれ飲んでおくと少しは違いますよ」

疲労回復にはうってつけのプロテインだが、いかんせん余り美味いものでは無いのが難点である。

それでも昔に比べればまだ摂取し易く改良は重ねられているので、今夜のようなことの後には出来れば飲んでおきたい一品だ。

暫く夜道を歩いている内に、大宮公園に差し掛かった。どうせ歩くなら明るい方が良いと、公園内の小径に沿って歩みを進める。

昼間の喧騒が嘘の様に静まり返った公園内は、静かに佇む常緑樹や赤松が白い街灯に照らされてまるで違う空間の様を演出している。

「春は桜が綺麗だよな」

「ですね。支部のお花見思い出します」

「お前確か配属された年の花見で、早速倒れてたよな」

恥ずかしい過去を指摘されて、そんなことを思い出さないで下さいと抗議する。

「あれは、指令長が呑ませたんじゃないですか」

「俺のペースについてくるからだよ。ま、介抱してやったからいいじゃないの」

深夜までベンチに座り込んで動けなくなった自分の側に居てくれたことは、今でもよく覚えている。

この人は何もかもが規格外の男だ、そう自分に言い聞かせたあの日が懐かしい。

あれから色んなことを経験して、次の春が訪れる頃には三年目になる。最初の一年間は憧れだけで遠い存在だった彼が、

二年目に入ってこんなにも近い存在になるとは思っても見なかった。

彼とは単なる上下関係では収まらない。時には立場が逆転したり、怒ったりハッタリをかまされたり、

わざとエグい面を見せられたり泣いたり、互いに駆け引きをしたり、馬鹿みたいなことを共に大真面目に取り組んだり。数え上げればきりがない。

一言で纏めるならばただ側に居るだけで安心する、その関係が丁度良い人なのだ。

そして、過ぎ去ったもう取り戻せぬ日々を悔やんで嘆き涙する自分を許容してくれたあの時、気付いてしまった。

彼がどうしようもなく好きなんだ。

彼の為ならば自分はどうなろうとも構わない。もし自分に出来ることがあれば何だってしたい。

公私共にあるならば、末長く同じ道を歩いていきたい。こんなにも誰かを深く強く想ったことは今まで生きてきた中で一度も無かった。

だから多分、この重ねた想いを今なら告げられると思ったのだろう。





相変わらず野球の話題を続けながら歩けば、ようやく公園を抜けて氷川神社近くのひょうたん池まで差し掛かった。

ここを通って神社の楼門を過ぎれば大宮駅まではもうすぐ近くだ。指令長との深夜のイレギュラーな語り合いも、あと少しとなった。

澄んだ空気の中、氷川神社の楼門は柔らかな明かりを灯す二基の灯篭と等間隔に並ぶ街灯に照らされて闇夜に浮かび上がり、幻想的な美しさをたたえている。

こんな時間にでも歩かなければ見ることが出来ない光景だ。

「……指令長」

そんな鮮やかな彩りに染まった楼門の前で立ち止まると、少し前を行く彼を呼び止めた。

「どうした、本庄」

もう少しで駅だぞ、と振り返った指令長は先を促す。

「ここ、少しだけ見ていってもいいですか?」

「ああ。昼間と違った感じだな」

隣に並んで静かに佇む楼門を見上げながら、俺はこっちの方が好きだなと指令長は呟いた。その和やかな横顔が本当に美しい人だと思った。

「出水さん」

初めて苗字だけで彼を呼ぶと、特にいつもと変わらない表情で「どうした、本庄」と応えてくれる。

深夜特有の冷えた空気が外気に晒された頬に痛く、緊張感を更に煽る。いつもの自分ならば上がり過ぎてここからは何も言えなくなる場面だろう。

でも今夜は不思議とそんな気持ちにはならなかった、むしろ心は静まり返り波一つ無い鏡を模した水面の様だった。

そして体ごと彼の方を向くと、一呼吸置いて想いのままに言葉を紡ぐ。

「僕はあなたが好きです、出水さん。

もしも叶うことなら、あなたとこの先の生涯を添い遂げたいと本気で思っています」

自分より少し背の高い位置にある瞳を真っ直ぐに捉えて告げた。

暫しの間を置き、彼はいつもの様に眼鏡のブリッジ部分を押さえて苦しげな溜め息をつく。やがてこの人らしい冷たい鉄面皮に変貌すると、

自分に一度投げた視線をふと逸らす。そして革靴の底で砂を踏み鳴らしながら自分の真正面に向き合って対峙した。

その冷ややかで見下すような眼差しは目の前の青二才を平伏させ二度と刃向わせまいとする意図を滲ませている。

「どうしてこんな年いった男に惚れてんの?

賢い学校出てるんだったら少しは現実を見ろよ。それに結婚するなら絶対女の方がいいに決まってるだろう」

「熟考の上の答えです」

「一回り以上も年上だから順番からいって俺はお前より先に逝く。そうなると残りの長い人生は独りだ。耐えられないだろうな」

「覚悟しています」

「大体男と一緒になったって親にちゃんと言えるのか? 泣くぞ、やめておけ」

「両親には諦めて貰います」

「あのな、男同士のセックスはお前が思うよりも面倒だぞ。はっきり言って悪趣味だ」

「別にいいじゃないですか、面倒でも。あと主観で物を言わないで下さい、あなたらしくないです」

「黙ってろ本庄。大体人生に於けるリスク回避がお前の心情だろう。プロの道を諦めた時だってそうだ。

それとも何か? また自分から進んで苦しい道を行くのか? 子供じゃないんだからいい加減学習しろよ」

「どんなことが有っても、あなただけは諦めたくないんです」

「まったく。ああ言えばこう言う、そういう所がお前は駄目なんだと何度言ったら分かるんだ!」

「あなたは言葉にして言わないと分からない人じゃないですか。

今迄はっきり言う人間が殆ど周りに居なかったって、ご自身で仰ってましたよね」

「ああもういい、煩いよ。お前みたいな部下が一番面倒なんだよ。

ちょっと優しくするとすぐこれだ、つけ上がるのも大概にしろ。

いいか、今なら全部聞かなかったことにしてやる。一切否定しろ」

「そんなのお断りですよ」

「なんだと」

「あなたを心から愛しているからです」

堰を切ったような言葉の洪水が、この一言で止まった。顔を歪ませて次の句が告げられない指令長の様子を伺い、

一呼吸置いて最後の切り札を切った。

「だから僕の全てと、この右腕をあなたに捧げます。出水さん」

これで駄目ならば諦めがつく。感極まっていつの間にか双眸からは涙が勝手に溢れていた。それでも彼の瞳からは決して目を離さなかった。

「……やってくれたな、全く。ここまで一歩も引かんとはな」

お前らしいよ、と呟いたその顔は薄明かりの中でも判別出来る程紅潮していた。

そして自分から視線を外し顎に手を添えて次の言葉を探すような素振りを見せる。

暫し思い巡らせた後に、張り詰めた空気を緩める様に彼は軽く息をついた。

「俺の負けだ、本庄。まるで直球インコースど真ん中150kmの告白だな」

好戦的な態度から一変して呆れたような声音を発した指令長は、ようやく目を細めて顔をほころばせる。そしてハンカチを取り出すと

自分の頬を伝う大粒の涙を丁寧に拭ってくれた。やっぱりこの人の根はとても優しい。

「まだ若いのにこんなおじさんに心持って行かれて。ほら、いい子だからもう泣くな」

ちょっと言い過ぎたよと詫びながら、空いた左手で頭を優しく撫でてくれる。それだけでもう心が溶けてしまいそうだった。

「いや、完全に持って行かれたのは俺の方だったな」

彼はハンカチを仕舞い両肩に手を置くと目尻へ順にキスしてくれた。それがくすぐったくて、つい一歩後ろに下がってしまう。

「ほら逃げないで、こっちにおいで」

その柔らかな語感に続いて指令長は自分の体を引き寄せ、包み込むように抱きすくめた。愛情がこもった抱擁は冷えつつある空気の中で暖かく、

冷たくなっていた指先までじんわりと熱を持ってくる。嬉しくてつい彼の肩口に顔を埋めたが、気付けばどうにも身動きが取れない。

それでは話の続きが出来ないので、まるで狭い所に好んで入った猫の様に何度か身じろぎして

態勢を変え両腕を背中に回す。そして彼の顔を至近距離に見上げて、

少し苦しかったですと眉尻を下げて頬を緩めた。

その一連の動作がやっぱり可愛いと指令長は唇に触れる程度のキスをくれる。そして先程とは打って変わり砕けた雰囲気で言葉を続けた。

「七月くらいだったな、キャッチボール始めたのって。最初は単純にガラスのエースの実力がどんなものか見たくて誘ったんだ」

「いきなりでびっくりしましたよ、あの時は。この人何を考えているんだって」

俺は欲望に忠実なんだよと指令長は悪びれもせずに笑う。

「やってみたらどうだ、まず変化球の質がまるで違う。あと球持ちの良さに精密機械みたいなコントロール、

それにとどめの一球に放った伸びやかな速球の美しさ。こいつは尋常じゃない、

俺の手に負えない別格の化け物なんだって思い知らされたな」

「そんな風に見えていたんですか、僕」

「ああ、だからお前は大宮に居ちゃいけない人間だって言ったんだよ。この実力は勿体無さすぎる、

プロか直でMLBの3Aに行ってメジャーに上がった方がいいって。まあ、それはさておきだ。

そんな完全無欠で美しいものを真近で見たら、人間惹かれない訳が無い。高嶺の花なら恋い焦がれる、

だからもっと深くお前のことを知りたくなった。それからまあ色々八方手を尽くしたな、中学生の恋愛かって程に」

「次の日いきなり試合に出ろってのが一番衝撃的でした」

あれは本当にすまなかった、と殊勝な態度で指令長は侘びを入れる。

「その後で、社会人チームの誘いとかありましたよね」

「羽島さんから電話受けた時にな、なんでそんな話を相手に通したんだよってそりゃもう怒ったさ」

「でも結局話を握り潰さなかったですよね」

「あれに関してはなー、まだお前に言いたいことがあるんだよ。でも今はやめとく」

お説教は嫌ですよと苦笑いすれば、そういうのじゃないんだけどねと指令長は再びキスを落とした。

ただ唇を重ねただけなのに柔らかい感覚で頭の奥がどうにも切なくなってしまう。

「で、広島の夜のアレがあって」

「もしあのまま続けていたら?」

「無理矢理案件だったと思う。あれは危なかった、お前は俺好みすぎたからな」

一発懲戒免職沙汰は御免だと指令長らしい態度になるのがなんだか可笑しい。

「もう本当にお前のことを取り返しがつかない位好きになった。お前がずっと俺の側にいてくれたら幸せだろうなって、

身の丈に合わん幸福を願ってしまった訳だ。

だから年明けにでも指輪買って、玉砕覚悟で正式に結婚を申し込むつもりだったよ。

そうしたら、お前に先に言われた」

「なんだかすいません」

謝るな、と今度は額に口付けを落とされる。唇の冷やりとした感触に思わず少し身を竦める。

「本庄、さっきは散々試してしまってすまない……しかし本当にこんな俺でいいの?

自分で言うのも何だが、見た目より結構残念な普通のおじさんだぞ」

「あなたがいいんです、あなたじゃないと僕は嫌だ。普通だっていいじゃないですか、

僕は優しくて凛としたあなたが大好きです」

出水さんと呼びながら目を閉じて顔を向ければ、それに応じて指令長は直ぐに口付けをくれた。

軽く舌を絡ませるだけの短いキスだったが、今迄で一番温かく感じた。

「ずっと好きだよ、大好きだ。心から愛してるよアカギ。誰にもやらないし離したくない、

どうかこの先どんなことがあっても俺と同じ道を一緒に歩いて欲しい。お願いだ、俺だけのものになってくれ」

情熱的な言の葉を浴びせられ慈しむ様に抱き締められれば、もうどこへも行けない。

はい、と気恥ずかしく応えれば顎を掬われてその口を今一度塞がれた。

こんな真夜中に神様の前でなんということを。そう思いながらも目を伏せて彼の熱を甘んじて受け入れ続けた。





「定石で言えば、これからお前をホテルに連れて行って朝まで愛を確かめ合うのが王道なんだが」

「バッセンで体力使い果たしましたよね」

日付けも変わった深夜十二時過ぎ。駅前コンビニの前で、いよいよ冷え込みが増す中を二人揃ってプロテイン入りゼリー飲料を飲んだ。

先程まで濃密で官能的なやり取りを繰り返したせいか、まだ頬が上気している。こういう時に冷たい飲料が喉にありがたい。

「僕の宿舎に来ます?」

「今夜はやめとく」

絶対勃たないとあからさまなことを指令長は言う。

「あ、そうだ本庄。明日っていうか今日デートしよう、デート」

「指令長、先程ちょっとだけ仕事するって仰ってませんでした?」

「昼から抜ける。東京出て買いたい物があるから付き合ってよ」

「了解です」

指輪じゃないっすよね、と確認すると「それはまた今度」と笑顔で締め括られた。やっぱり買うのか、と思えば段々と恥ずかしくなってくる。

「じゃあ一時頃に大宮駅中央改札前あたりで。昼飯は、まああっちで美味いもの食べよう。しっかり寝てこいよ」

「指令長もあまり無理しないで下さいね」

周りに誰も居ないのをいいことに、指令長は自分の右手を取って素早く手の甲に口付けた。

何と言うか、この人は自分のものにした途端に所構わずキスし過ぎではないだろうか。本人が述べる様に見た目のスマートさと違いすぎる、本当に謎の人だ。

「じゃ、おやすみ」

軽く手を振り駅東口の方へと歩いていく指令長の背に、いつもの癖で一礼してしまう。

想い人の心を射止め生涯の伴侶を得てしまった夜、身体は疲れ果てていた筈なのに頭はずっと冴えたままだった。

「よし、走って帰るか」

相変わらず野球部だった頃の癖は抜けず、駅から十分のコースを走り出した。体感気温七度の寒風はこれまでになく心地よく感じられた。







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