=Inside Out=
十月も半ばとなり、すっかり秋めいてきた頃。地下に設立されている故に季節感とは縁遠い筈の大宮支部であったが、
一人だけこの時期について頭を悩ませる者がいた。研究所の長、出水シンペイその人である。
執務室のパソコンモニターを前にして、彼はとある事案を前に眉根を寄せて思案に暮れていた。
「さて、どうしたものか」
こめかみの辺りを軽く揉みながら椅子に背を預けて大きく溜め息をつく。まだ万策尽きた訳ではない、しかしこの手を使うのは憚られる。
そんな時に浮かぶのは、いつも影から自分を支えてくれる部下の顔だ。
こちらからの無理難題を人の三倍文句を言いつつ、結果的には完璧にこなす。有能な男である。
しかしながらプライベートでは自分に向かって言いたい放題言う傍若無人な面もあるのが玉に瑕だ。
役職付きの自分を遠巻きに見る連中が多い中で、こんなに変わった者は今迄自分の周りには居なかった、そんな男である。
「しかし気軽に頼ってばかりというのも……」
彼だから、という甘えも入っているのも事実である。きっと彼ならなんとかしてくれるだろう、こんな短絡的な構図が半年前から自分の頭には出来上がっていた。
だが、彼の本音はどうなのか。
奥底に秘められた鋭い勝負師的本質は見抜けても、それを内包する柔らかい性質が分からなければ知らないも同然のことだ。
自分のテリトリーに招き入れて五ヶ月になろうこの時期、押し付けがましい手はもう使えない。どうしたら彼の負担にならずに事を進められるだろうか。
彼への連絡手段である個人用スマホは目の前の机上に置いたままだ。それを手にすることをためらい、出水はまた一つ溜め息をついた。
その日の昼休み、本庄は珍しく同期の小山と昼食を共にしていた。日頃日の光を浴びないオフィスではつい鬱々となってしまう。
昼間くらいはモグラ生活を止めて地上に出たい、そんな小山の提案で鉄道博物館屋上での昼食となった。
丁度見学者もまばらな時間帯であり、隅に据え付けられた木製ベンチは空いていた。
そこに腰掛け空を仰げば、うろこ雲が広がる秋の独特の気候を感じられる。やはり地下ではこうはいかない。
小山はいわゆる自炊のマイお弁当を持参し、本庄はコンビニで購入した惣菜パンを昼食にした。正直これだけでは栄養に偏りがあって投げる時に持久力が付かない。
改善の余地有りと思っているが、空腹に耐え切れず本庄はクロワッサンのサンドイッチの袋に手をつけた。
「いい季節になったよなー」
「ですよねー」
「小山は今度の休みはアレ?」
「はい、豊洲のハコです」
彼の外見からはとても想像出来ない音楽趣味だが、実はオルタナティヴロックをこよなく愛している。
その辺りの新旧界隈にも詳しく、本庄も彼から情報を仕入れることがあった。人は本当に見かけに寄らないというのを体現している男だ。
「三条さん誘わないの?」
彼が付き合っているらしき同僚の名前を何の気なしに上げるも、小山はメガネのツルを持ち上げて指摘する。
「彼女とは音楽の宗派が違いますので。無理に誘うのはお互いの為になりません」
そういうもんか、とサンドイッチを頬張りながら頷く。しかしながら、自分も好む音楽ジャンルの話となると少々物を言いたくなる。
「でもオルタナとかエモとかって結構聴きやすいと思うけど」
「それは本庄君の主観ですよ。そういう趣味の押し付けは良くない」
成る程徹底している。自分も所内では指令長としか野球の話をしないようにしているのも、無意識にそういう線引きがあるからかもしれない。
「所で、本庄君のお休みは?」
「うーん、ペナントレース終わったからもう球場行く事も無いな」
「クライマックスシリーズってやつは観に行かないのですか」
もうひと口食べようとしたクロワッサンを下ろして苦笑いする。なかなか小山の指摘は鋭い。
「いやー応援してるチームが昨日あっさり負けちゃったんだよね。だから今年の野球はもうおしまい」
それは残念です、と小山は同情してくれる。そんな野球ファンでもない彼の言葉が今はとても温かく感じる、そんな敗戦だった。
「今シーズンのチームデータ整理をサボってたから、そろそろ纏めようかと思ってるんだ」
「そういう過ごし方もいいですね」
弁当の玉子焼きを食べながら、小山は楽しげに頷く。
実は例のキャッチボールを機に所内で自分の野球好きを徐々に公言し始めたのだが、思ったよりも周囲の反応は小山の様に概ね柔らかだった。
むしろ野球好きの指令長のお守りを進んで買って出てくれる良い人、もっと言えば人身御供的扱いをされている感が強い。
自分は人柱か何かだろうか。所内における出水指令長の存在感が最近よく分からなくなってきた。
「そういえば指令長とのキャッチボールっていつ頃から続けてます?」
「うーん、今年の七月くらいからかな」
結構持続してる、と小山は興味深く頷きながら弁当の半分を占めるブロッコリーを次々と口にする。
「週一だし、やらない週もあるから割とゆるいよ」
「ここまで上司と良好な関係でいられるって珍しいですね」
「単なる野球好きがつるんでるだけなんだ。同好会みたいなもんだよ」
部員たったの二人だけど、と笑いながら傍に置いたミルクティーのボトル缶を手に取る。
「いえ、どちらかと言えば恋人同士っぽいです。今のお二人は」
虚をつく小山の一言に危うく右手からボトルを滑り落としそうになった。もしこれを飲んでいようものなら今頃周りは大惨事だっただろう。
「言うねえ、小山くん」
顔を引きつらせながら同僚を睨みつけ、改めて金属製キャップを捻る。甘い独特の香りが漂い鼻をくすぐった。
「客観的な事実を述べたまでですが」
「なにそれ、どういうこと?」
「指令所内ではそう見えませんが、少なくとも整備班の方々が仰るには」
二人の空気が既に熟年夫婦クラスらしい、と小山は人差し指を立てて芝居掛かったように述べる。
「うわーお……マジか」
しまったな、と呟きながらこめかみを抑えて困惑する。
確かに彼らの領域を間借りして遊ばせて貰っているからには、キャッチボールの現場も当然目に入るだろう。
一応整備士が帰宅した時間帯を考慮して行っているが、たまたま忘れ物などでイレギュラーな出入りする事だってある。
ということは、半月前の恥ずかしいやりとりも目撃されている可能性が高い。
とりあえずこれ以上変な噂を広められてはかなわないし、セクハラとかつまらない理由であの人とのキャッチボールを止めさせられたくは無い。
「指令長に報告しておくよ、対応はそこからにするわ」
またいらぬ雑務が増えたとうんざり顔でミルクティーを口にする。好みの製品なのにやけに甘ったるく感じてしまうのは何故だろうか。
「それが賢明ですね」と小山も呑気にペットボトルのお茶をあおり、一息ついた。
「ところでお二人のご結婚はいつに?」
彼の絶妙な間を置いたコメントに、今度こそ甘い液体が鼻に抜けそうになった。
口元を抑え辛うじてそれを飲み込み、二三度咳き込む。とぼけた顔でこちらを心配する小山にもおちょくられるとは何たることか。
屋上に人が居ないのをいいことに、ありったけの罵声を上げた。
「やかましいわこの瞳だけ一人歌劇団!」
立ち上がり怒りに任せて彼独特のヘアスタイルを両手で乱暴に崩す。それと同時に、上着のポケットに収めた個人用スマホから軽やかな音が鳴り響いた。
取り出して画面を確認すると、指令長からのライン着信が表示されている。まるでこちらの動きを測ったかのようなタイミングである。
恐る恐る内容を確認して渋い顔をする自分を、小山は手櫛で髪を撫でつけながら怪訝な顔で見上げる。
「ひょっとして指令長?」
気まずく頷きながら彼に画面を向ける。自分が見ていいんですかね、と小山は遠慮がちに画面を覗き込んだ。
「おお」
「もうちょい気の利いた呼び出し文句とかないもんかね?」
表示された画面には「そんなことより野球しようぜ!」の短文が張り付いている。
「キャプテンネタですか。指令長渋すぎ……」
顎に手を当てて頷く小山に「お前も野球マンガ愛好者だったのか」などと突っ込まずにはいられなかった。
指令業務を準夜勤組に引き継いだ後、本庄はロッカールームに駆け込んだ。
今日はまた何を押し付けられるのやら、それを想像するだけで正直気が滅入る。
今迄のパターンからあらゆる事態を予測しながら自分のロッカーを開いて帰り支度を整えた。
「昼間聞いたアレも相談しないとなあ」
どういう切り口で指令長に伝えよう、依頼の前だと機嫌を損ねそうだし、後だとまたややこしくなる。
配球を組み立てる様にあれこれ頭の中で整理して、ここぞというタイミングを計ることに慎重になっている自分に気付いてなんだか可笑しくなった。
「駆け引き好きにも程があるよ、本当」
マウンドでの心理戦は得意だが、指令長に対してはまだまだ敵わない自分がいる。いつも丸め込まれてばかりなので情けないことこの上ない。
勝ちに行くにはどうすれば、いや彼に勝つとは一体何だろう。穏便に話を進めるか、こちらに利の有るように話を向けさせることか、それとも。
「最終的にお互いが楽しけりゃ、それでいいんだけどね」
独りごちて気付いた。それは恋の駆け引きに似ているのではないかと。思わずネクタイを締める手が止まってしまう。
指令長のことは上司として敬愛している。ありがたいことに、彼もまた自分を部下として可愛がってくれている。
なにより、彼はここ半年程で自分に対して平気で歪んだ面を見せてくるようになった。
この若さで組織の上層に入り込み、更に上を虎視眈々と狙う野心家ならばそんな黒い感情など有って然りだろう。
しかしそれを自分の様に寝惚けた部下の前で披露するのはいかがなものかと思う。はっきり言って隙があり過ぎるにも程がある。
しかし醜い面まで許容して今だに近く居続ける辺り、自分も彼に緩いなと反省しきりだ。
ただ、これらの関係性と感情材料だけで果たして恋といえるのだろうか。
ふと昔、自分だけを愛していると告げてきた男の存在を思い出した。
互いに納得できる落とし所で別離したとはいえ、彼に応えられなかった後悔だけはどうしても消すことが出来ない。
そんなものが未だ密かに胸の奥底に沈めてあるのだ。
この想いに似ているかどうかと問われたら、まだその域には達していないように思える。
「まだ」というのは何か。いずれ彼とそうなりたいかどうかも分からないのに、一体自分は何を考えているのだろう。
「やめよ、考えすぎた」
いつも通りのやり取りでいいのだ、そう言い聞かせて身支度を整え終える。そして手前にある大事なグラブが入った黒いスエード地の袋を手に取った。
一連の流れを終え冷たい灰色のロッカーを締めると、扉に額を押し付けてこもった熱を移す。こうすればいつも通りに冷静さを呼び戻せる筈だ。
『ずっと一緒に歩いていけると思ってたのに』
瞳を閉じると、記憶の淵に残したあの声が蘇る。
「ごめん、本当に」
ロッカーから額を離して無意識の内に手に持ったグラブの袋を抱き締める。そしてもう会うことも無い者の名を呼び、再び目を伏せた。
そうこうしている内に、ここに来て既に20分は経過していた。これ以上指令長を待たせてはいけない、
急いで荷物を取りグラブ入りの袋を脇に抱えると足早にロッカールームを後にした。
午後六時を廻った頃、地下深い操車場のいつもの一角に指令長は居た。通常こちらが待つのが当たり前なのに待たせてしまって申し訳ない限りだ。
「お疲れ様です、遅くなってすみません」
「いや、来てくれて助かるよ」
既に上着を脱いで支度を整えていた指令長は、スマホから視線を上げる。その表情はいつも以上に済まなさそうにしており、
いわゆる美人が憂いを帯びているという形容が似合う。しかし自分にしてみれば、これは相当面倒な案件だろうという空気を感じ取った。
「指令長、重要案件でしたら執務室の方がよろしいのでは?」
「あそこは指令長のままでしか話せないから、ここがいい」
スーツの上着を脱いで鞄の上に置きながら、そうですかと返す。これは益々もって爆弾案件の予感がする。
「実はな本庄、クライマックスシリーズのファイナルステージチケットが当たったんだよ」
「すごい! おめでとうございます!」
この時期、国内で最も取り難い抽選チケットを当てるなんて豪運すぎるではないか。やはりこの人は何かもっている人間なんだろう。
「大宮から西武ドームって確か一時間くらいですよね、試合終了まで楽しんできて下さい!」
「……誰がパリーグの試合が当たったと言った、本庄」
「はい?」
指令長は大の西武ファンだと飲みの席で毎度聞かされていた。故にパリーグの抽選チケットに申し込むのは当たり前ではないか。
しかし、指令長が黙って差し出したスマホ画面にあった当選通知には恐るべき事実が記載されていた。
「……セリーグですね」
「うん」
「しかも広島じゃないですか、これ」
「そうだな」
指令長は赤面しながら視線を他所に移し、ばつが悪そうにスマホを尻ポケットに収めた。
「そうだなじゃないでしょう、ちょっとなんですかこれ! なんでパリーグじゃないんですかあなた! 何してるんですか」
「仕方ないだろ! 西武戦は知り合い含めて二十人応募して誰も当たらなかった倍率だぞ!
なのに、一度行ってみたかった広島戦は一人で応募したのに当たってしまって……」
二十人全員外れという確率もどうかと思うが、一人で一本釣りしてしまう指令長は本当に強運の持ち主だ。
今度の年末ジャンボ発売の際は是非お願いして買ってきて貰おう、などと欲に塗れたことをどうしても考えてしまう。
「で、行かれるんですよね。広島」
「ああ。これでやっと本題に入れるぞ、本庄」
眼鏡のブリッジに指を当てて、いつもの指令長然とするも「ああ恥ずかしかった」と呟く姿がなんだか年に合わずに可愛い。
こういう面が見たくてこの人とキャッチボールしているのだと、しみじみ思う。
「チケットは四枚、四日後の金曜日第三戦目でバックスクリーン近くの外野席だ。俺とお前でまず二枚埋まる」
何故か自分のことも勝手に頭数に入れられている。しかし折角のクライマックスシリーズなのだし、
ギリギリの有休申請はあっさり通りそうなのでここで野暮は言うまい。素直に頷いて腕を組む。
「残りの二枚だが、やはり子供達に見せてあげたいと思うんだ」
「いいですね、CSって夢がありますもんね」
2010年の千葉球団みたいな、と言えば指令長は正にそれだと指を差して笑う。
「で、各支部に色々当たってみたんだが」
指令長は胸ポケットから折りたたんだA4サイズのコピー用紙を出してきた。
受け取り開くとそこには丁寧な手書き文字で運転士達の名前がずらりと書かれており、その横には小さな字でメモが色々と書き足されている。
「まず北海道・東日本組は難しい」
確かに、緊急時になると距離的な対応が難しいというのがネックだろう。こういう時にパリーグ戦に当たっていれば、と思うばかりである。
「次に西日本組、清洲君はすぐNGが出た」
「え、彼も野球に興味あるって先日羽島指令長から伺ったばかりですが」
「……その羽島さんがな、リュウジ君は目下名古屋支部総動員で竜ファンとしての英才教育をしている最中だから駄目だと突っぱねられた」
未だ嘗て聞いたこともない意味不明な理由に、名古屋支部の底深い恐ろしさを垣間見た。
「で、京都支部だが」
「あ、そうだ。一番最初に速杉指導長は誘われなかったんですか? あの方も相当な野球好きですよね。燕ファンで」
何故知ってる? と指令長は驚きの声を上げた。
「先日電話でお話した際、お互い燕ファンだと判明しまして。
今度指導長が大宮に戻って時間があれば、二人で燕会やろうって約束したんです」
「あの人、投手陣の話始めると朝まで止まらんから気をつけろよ」
学生時代にサークル仲間と酷い目に遭ったからな、と指令長は苦笑いする。その話から想像するのは、速杉指導長の猛烈な燕ファンっぷりである。
「ご忠告痛み入ります」
恐らく、投手陣が怪我だらけでローテーションが崩壊していたあの壮絶な時期が主題になるだろう。
怪我はまあ、仕方ないよなと思わず自分の右肘を撫でてしまう。
「話を戻そう。
速杉さんは残念ながら外せない仕事で駄目だったよ。それで、霧島君と門司の大空君だが、直接二人とは話が出来たんだ」
「距離的にも彼らは最適ですね、山陽新幹線沿いですから」
「いやそれがな、二人ともに熱狂的な鷹ファンだからと断られた」
やはりそうだったか、と頷いてしまった。いつぞや個人データを算出する際に大空君と話をした時だったか。
雑談で北九州市民球場への道程を尋ねると、大変熱の入った説明をして貰った覚えがある。あまつさえタカトラ君まで乱入し、
来年の鷹試合開催日には絶対一緒に行こうとまで確約させられてしまった。思うに、大変ポジティブな鷹ファン達である。
「となると指令長、残るは」
「五ツ橋兄弟だ。彼らは快諾してくれたよ」
良かったじゃないですか、とコピー用紙を畳んで指令長に返した。
「本庄、あの双子に面識は?」
「データ取りに少し連絡を取ったことがあるくらいですが」
「そうか」
指令長は用紙を足元近くにある鞄に仕舞うと、どこか気まずそうにこちらに向き直った。
「先に条件を提示する。お前の交通費滞在費は俺が負担する、食費も込みでだ」
「いやそこまでして頂かなくても指令長」
せめて交通費くらい出させて下さい、と言いかけてこの破格の待遇に嫌な予感がした。
これは前回の名古屋行きとまるで同じパターンではないか。それに気づいた時にはもう遅かった。
「頼む本庄、試合が始まるまで広島であの双子の面倒みていてくれ」
「はい?」
手を合わせて必死に懇願する指令長を見るのは初めてだ。ということは、これは実際とんでもない案件なのだと理解した。
いきなり明日野球大会に参加しろと言われるよりはまだマシだと自分に言い聞かせる。
「そもそも平日ですから、日中は学校がありますよね?」
「恐ろしい事に創立記念日らしい、運が無かったと思ってくれ」
予定確認する前は学校帰りにって思ってたんだがな、と指令長はぼやく。
「そんなに大変なんですか、五ツ橋兄弟」
「あの子達は放っておいたら二人で延々喋っている。同じ声がステレオ大音量で聞こえるんだ、
尋常じゃない位にはやかましいぞ本庄」
とても実感を込めた忠告をされ、きっと以前そういう目にあったのだと想像に堅い。
大宮の運転士達をはじめ、小学生男子とはやたら元気に溢れている生物だから仕方ないことだ。
「ちなみに二人は鯉ファンですか?」
「筋金入りだ、俺もあの知識にはとても追いつけん」
山口県は地域により、ざっくり鷹・De・鯉のファン層に分けられると聞いたことがある。
広島県にほど近い沿岸部で育った彼らが周りの環境に影響されて深い鯉ファンになるのもなんとなく理解できる。
「時間的に半日僕が預かるってことですね。あ、野球場でも面倒見てあげないといけませんね、承知しました」
せっかくの小旅行だから楽しんできます笑えば、指令長はほっとした表情になった。
「済まないな」
「いーえ、いつものことです。金曜日楽しみにしていますから」
話はこれでお終いのようなので、キャッチボール態勢に入ろうと指令長に背を向けた時だった。
「本庄、もし嫌なら断ってもいい。これは命令では無くて俺からのプライベートな依頼だから」
その言葉の内容に合わず、指令長の声は弱々しく聴こえた。何か含みがあるような、そんな語感だ。
「野球好きにCSって餌ぶら下げておいて、それはないでしょ指令長。絶対行くに決まってるじゃないっすか」
敢えて振り返らず、18.44mの位置まで歩きながら応える。彼はまた気を遣ったり色々考えてしまっているのだろう。
オペレーションでは素早く的確な判断を下す癖に二人の場になると物事をはっきり言わない。
半年間でようやく分かったことだが、どちらかというと親しくなる程に意思疎通が難しくなる人みたいだ。
しかし今の彼を捕手だと考えれば「こう言うと女房は一応安心する」という模範解答が一つだけあった。
「絶対安心クローザーの本庄ですよ、ここは任せて下さいって」
振り返ってそう言い切り、早くボールをくれるよう手を上げて催促した。
距離の向こうの彼は今の言葉に対して曖昧な表情しか浮かべないので、その心の内が伺い知れない。
しかし「わかった」という声のトーンと投げられたボールの速さに、先程の様な気弱さは感じられなかった。
やはり自分達には18.44mが丁度良い、遠すぎず近すぎずに通じ合える距離だ。
「所で指令長、当日試合にもお仕事があるのですか?」
緩いフォークを投げ返すと、指令長は危なげなく腰の位置でキャッチする。
「ああ。広島支社に挨拶に行って貨物にも寄って、
あとは矢賀車輌基地で新機体納入の打ち合わせと人事のお願いがあるな。こちらも結局半日仕事だ」
淡々とスケジュールを述べる指令長から折り返し、真っ直ぐな直球を受ける。
「殆ど挨拶回りですね」
「偉くなるとそんなもんだ、名刺ばかり重くてかさばる」
本庄カーブ投げて、のリクエストに応えて珍しくオーバースローでドロップカーブを投げ返す。
「てっきり支社の某部署にも寄られるのかと。あそこ元プロ投手の方が在籍していて
今は社会人チームで頑張ってらっしゃいますよね、かっこいいなあ」
沈んだボールを膝の辺りでキャッチした指令長は途端、不自然に無口になった。
「あ、寄るんですね」
「い、いいじゃないか別に」
「人に子守を押し付けたのはその為ですか、へーえ」
いやそうじゃない、と指令長は誤魔化す様にミットで口許を隠す。気のせいか最近彼の嘘が段々下手になってきた様に思える。
「もし運が良ければ、サインをお願いしてみるから」
「では『2012年8月の試合は最高でした』って必ずお伝え下さいね」
「相変わらずマニアックだな本庄」
「月間平均防御率計算して、いちいち夜中にラインしてくる指令長よりマシですよ」
なんだとこら、と指令長は怒り気味に速い真っ直ぐを投げ返してくる。
防御率の手計算とか、人のことを笑えない野球オタクだと自分は思うのだが。
「あ、そう言えば。このキャッチボールが所内で噂になってるらしいですよ」
「俺らが付き合ってるって話だろ」
「流石お耳が早い」
再びオーバースローで思い切り高い山なりのボールを投げ返す。
フライアウトの如く天井を向いて球をキャッチした指令長は、一度鼻を鳴らして腰に手を当てると呆れた様に言い放った。
「言いたい奴には言わせておけばいいんだよ。事実無根なんだから、お前も慌てず堂々としていればいい」
言われてみれば確かにそうだ。幾つかの戯れ合いは有ったにしろ、この人とはそういう関係になった覚えは無い
。
「了解です」
ただ、事実無根とばっさり言い切られてしまうとそこは少し寂しい。いつの間にかそんなことを思い始めた自分がそこにいた。
次のページ