=上の兄と。=
さて2回目です、ちょっとまじめなネタをお送りいたします。
もう知っとるわい!!という方は大勢いらっさると思いますが
忠通さんには兄がいます。なんだかんだでぼくは次男、ということで。
忠通の母親の師子さんは忠実さんのところにお嫁に来る前に
白河院の妾になっておりまして
そこで生まれたのがご存知第四皇子の「覚法親王」です。
寛治5年(1091年)の12月29日生まれ
この頃、堀河天皇はまだ幼帝でございまして
一見すると皇位継承立場にあるんでないか!?という期待のルーキー皇子でございますが
なんかしらんが、
生まれた時より継承想定外の立場だったそうです。なんとお。
(覚法親王が生まれた時、師子母さんは既に白河院から「君もういらんわ、おつかれちゃーん」と
手放されていた模様。なので親王は師子の実家で生まれた模様。おおおう…)
ちなみに、第二皇子である「覚行さん」も早々に皇位継承想定外の立場だったそうです。
あと第五皇子の「聖恵さん」も同上でございます。ぬううん。
皇位継承候補者からさっさと外してしまうあたり、
白河院の政治的混乱を排除する意図がなんとなく見え隠れしています。
ガチガチの院政敷いてやんよーーーー!!!!とかいう。
政局的に見ると、いらん争いを避けるには良い対処ではないでしょうか
情とかそういうのはさておいといて。
この覚法親王とか師子母ちゃんについて具体的に書いていくと
めーちゃくちゃおそろしく長くなるので
詳しくは柿島綾子氏の論文「十二世紀における仁和寺法親王」(玉葉を読む・に収録)
を買って読んでつかあさい。かなり面白くて資料ひろげまくって
お部屋が大変なことになってしまうこと請け合い!!
いや楽しいんすよ!!!!!
さてさて
覚法親王はどんだけ摂関家と縁があったのかという話
ざっくり言うと、
ベッタリでした。
もうびっくりするほど摂関家、みたいな。よくわからん。
幼少期(寺に入る前)は忠実の祖父・師実の下で養育されていたそうです。※資料少ないので不確か。
この頃忠実は既に公卿になっておりまして、年齢的に換算すると
一緒に暮らしていたか?というにはちょっと難しい時期なのですが、
恐らく何度かは顔を合わせている可能性があります。
年の差は14歳差なので、
ちびっこ覚法親王とのやりとりがあったらええかもしれませんね。
で、白河院亡き後に拠り所というかコネクションを模索した彼が行き着いた先が
師子かーちゃんが嫁いだ摂関家というあたり、人情的なもの3割政治的意図7割を感じます。
ほんじゃ忠通さんとの仲はどうだったのか?というと
あんまし資料の無い中で今のところ出ている答えは
「あまり仲がおよろしくなかった」とのこと。
(もっとも、最初から縁が無かった訳では無く、忠実台頭により忠通とは次第に途切れていった模様)
どっちかつーと、頼長と仲がよかったようです。何度か会見していることが台記に残されています。
「仁和寺参ったでー」という記述から推測するに6回くらい会ってます、うーん結構頼ってますね。
泰子ちゃんが入内する時の縁もあってか、ほぼ「忠実・頼長ライン」に権力依存していたようです
なんというか、血が繋がっていない義理の弟の方とあえてつながるというあたりが
この時期の権力闘争のややこしさを物語っています。
幸い、彼は保元の乱直前にて薨去してしまうということで
摂関家の衰退を目の当たりにすることはありませんでした。
なかなかどうして世渡り上手な親王さんという印象であります。
白河院→待賢門院→摂関家とかね、ほんまこんな荒波よう乗り切るわ…とびっくりします
そういう所がもしかしたら白河院や師実公の影響を受けているのではないか?
などという面白い妄想も浮かんでくる次第であります。
こんな感じで2回目は終了。
お帰りはブラウザのバックでお願いします。