=子供にもてる私。=
はい、7回目です。
最終日の15日にたどり着きました、おおやっとか、やっとなのか。
ということで、忠通おにいさまお誕生日おめでとうございます。
えーと、いくつになるんや、917歳か、そうか、よかったなあ!!!!
900歳引いてくださいとかいうおまけはつけへんで。
お誕生日だからという訳ではありませんが、幼帝+わが子に囲まれて
一応ハーレム状態のお兄さんです。
どうせなら女がよかったとかいうクレームは受け付けん模様。
幼帝にもてまくる忠通らくがきを描いた時も思っていたのですが
基本、兄上は対人スキルが人の倍あるのではないでしょうか。
あとスルースキルもすごい。鳥羽法皇と崇徳院がやや疎遠になっていた頃も
二人とは微妙にいい距離を保っていたようです。
あんたらの味方にはならんけど、話はきいたるよ、みたいな。
実際、崇徳院が新院になってしまって政治から遠ざけられた時も、
にも関わらず彼の歌壇に入っていたような記述があります。
今ネットで読める「田多民治集」(忠通の歌集)にもそのような記述がありましたんで、うへーやりおるとか思いました。
ていうか、歌集にんなこと書いとくあたりが、用意周到やね。
「わいは文化人としての崇徳院がだいすきなんじゃよー」というのをアピールしています。
まあ、そういうの書くのは後々なんかあった時に大事なんですがね。
そういう藤原家のスタンスを確立したのが、このお兄さんということなんですな。
現代の目線から見ると、上々の政治手腕です。
こういう地味なのが、忠実おとんにはあんまし好かれなかったんだろうね。
忠実のやりたかった事を考えると、分からんでもないので複雑やね。
ちなみにこの政治スタイルは、息子兼実にも継承されているようです、
鎌倉殿と後白河法皇の間に入っていたころの資料なんかがくそ面白い。
暇な人は鎌倉前期の朝幕交渉とかいう項目で検索してみるといいかもしれません。
感覚的には、ww2で自国焦土作戦を言ってのけるスイスみたいやね。どんなんや忠通おにいさん。
お帰りはブラウザのバックで。