=摂関家ご一行様=


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というこうとで、始まりました更新1回目は三名様ご案内。
こうして親子三人を並べて描くのは実は初めてなんですな、なにしとる。
大河のイメージに参考資料をぶちこんだ結果がこのデザインです。
こんなんが向こうから歩いてきたら、確実に泣くわい。



さて、せっかくなので忠通兄上の半生なんかをざっくり簡単に記しておきます。
んなもんはとっくに頭にはいっとるわボケ、という人間の鑑のような御方もいらっさるかと思いますが
とくださんお得意のうそんこ捏造設定を多量に加味しておりますので
どうぞひとつよしなに。


・1097年3月15日生まれ。旧暦でいうとこの1月29日生まれ。丑年です。

・幼名は威徳はん。6歳くらいのときに「忠通」と称する。

・白河院の猶子なんですが、おとん(忠実)の意向により堀河帝に差し出される。この時、8歳。
つまるところ、じいさんにエロいことを仕込まれる前に、まだ若い方になんとかさせたほうがマシとか考えたのかもしれん。
しかし、差し出した先は想像以上に変態だったでござるの巻。哀れ忠通はん、1週間籠の鳥となる。

・そんなこんな色々あって、白河院の悋気を買い、忠実は関白職から失脚。
この辺の経緯は、閑院流とのいざこざ以外にも面白い要素が沢山あるので、調べる価値はあります。

・1121年に父に代わって氏長者となって、関白職に就任。このとき25歳のヤング関白にございます。
いかんせん若かった為に、所謂名ばかり関白とかいわれ、苦労した模様。

・1125年の29歳の時に、弟である菖蒲若を養子にする。
ここでなんか変なスイッチが入って、ベタ惚れに。以降、この感情に一生振り回されることになる。

・菖蒲若以外の実子は、男11人女3人(うち養女1名)で、総勢14名。
おい、余裕で野球の打線が組めるがな。調子に乗ってつくりすぎや忠通はん。

・奥方は大体9名くらい居た模様、愛人も含めるともう両手じゃ足りないんじゃないか?
おまえこらなんだそのうらやまけしからん生活は。

・頼長との養子縁組を切ったのは1137年前後の話だと思われ。このとき、忠通40歳で頼長17歳。
頼長にしてみれば単純にショックであり、忠通としては苦渋の選択だったかもしれません。
これまで頑張って摂関家を支えてきたのに、いきなり親父に「おまはんはもういらん」とばかりに蔑ろにされてしまったら
もう、心もへし折れるとかいうものです。せめて自分の実子にも機会を、というのを真っ向から否定されたらたまりませんよな。
頼長には落ち度が無い、されどこれ以上手元に置いておく理由を失ってしまったということで縁を切った模様。
ここで親父に徹底抗戦して頼長を抱き込んでいたら、忠通の人生や歴史が変わっていたかもしれませんね。
保元の乱の面子が変わっていること請け合いです。

・近衛帝への養女入内騒動の件やらいろんな件で忠実おとん+頼長との仲はもう最悪になる。
そこでバックボーンに鳥羽院の嫁の得子を付けて、本格的に対立構造となる。

・保元の乱の前後は、見てるだけの人を装いながら、裏工作に励む。
後白河帝擁立の際の工作は、様々な文献を読んでいて関心する位に狡猾です。すげえわ兄上。
これは正面から戦いを挑む頼長は勝てないなと実感しました。うん、だめだわ。
もうね、根回しと妨害工作の鬼、これが兄の真骨頂か!!!!みたいな感じです。

・乱以降のお話は、掲載しているまんがの通りです。もうちょっと補足つけていきます、
とりあえず、寝よう。


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