=be ashamed of=



9月末になり、大宮周辺は朝晩寒暖の差が大きく一気に秋を感じさせる気候となっていた。

その日の午後3時、指令長の執務室に呼び出された本庄は期待と不安が入り混じる中で扉をノックした。

中の主からの返事を確認し、一度深呼吸してから行儀良く執務室に入室する。

「忙しい所をすまないな本庄」

「いえ。指令長、僕にご用というのは」

「実は、この件なんだが」

指し示されたのは広い執務机に並べられた二つの封筒。一通は明らかに野球観戦チケットが入っているオレンジ色の封筒。

そしてもう一通は、どこからどう見ても新幹線チケットが入っていますよと主張する緑色の封筒である。

これでもかと大きく親会社の名前が印刷している箇所に、妙な威圧を感じる。

このラインナップからして、これから何を言われるのか大方予想がついた。ここからは先手必勝だ。

「行きませんよ!」

「まだ何も言ってないだろう、本庄」

「大体察しがつくというか、この封筒はあからさま過ぎじゃないですか」

そうかい、と指令長は極めて冷静なままだ。

「そんなに悪い話じゃないと思うけどね」

言いながら、白く長い指がオレンジ色の封筒を開封する、そこから取り出したのはやはり1枚の野球観戦チケットだった。

しかも東京ドーム一塁側エキサイトシートの一列目のコーチャーズボックス間近の席であり、いわば特等席だ。

ここだと日頃から猛烈に憧れているコーチの姿をしっかり見ることが出来る。

以前同行した神宮球場のバックネット裏も実に最高だったが、これはまた別の意味で最上級の席だ。

こんな素晴らしい機会を目の前に提示され、本庄は気絶しそうだった。

「これだけじゃ何だからビールと焼肉弁当もつけるぞ」

いやそんなの無くていいですからコーチだけ見せて下さいお願いします、という懇願を辛うじて飲み込む。

実に危ない所だった。

「破格の待遇。という事はこれに見合う労働対価が必要なんですね」

「君は話が早くて助かる」

指令長はチケットを封筒に収めると、緑色の封筒の近くに寄せた。

「まずは野球チケット。こいつは名古屋の羽島さんから回ってきたんだ」

「羽島指令長から、ですか」

とても意外な出処に思わず驚きの声を上げた。

「いつもはお互い様って事にして融通利かせていたんだよ。でも今回は条件つけられてね」

金銭的条件で無いのは、この新幹線の封筒を見れば分かる。

羽島指令長の人柄からして、そういう事を要求する人では無いというのも想像がつく。

という事は単純な話、人的補償ではないだろうか。

「彼が選手兼監督をしている草野球チームがあってね、どうも今度の試合に人が足りないらしい」

嫌な予感は的中した。この時点で机上にある新幹線チケットは名古屋行きだと確定した。

「僕にその試合に出ろと」

そういう事だ、と指令長はさも面白気に野球チケットが入った封筒を指で挟んでひらつかせながら笑う。

「あのですね、傭兵じゃないんですよ僕は!」

「いい機会じゃないか、君は試合に出たかったんだろう?」

そういう所を突かれると非常に痛い。しかし自分にとって微妙な問題が一点だけあった

「確認しますけど、僕を元投手だって言ってないでしょうね?」

「外野専門とだけ伝えておいた、それ以外の事はノーコメント」

一応の懸念は晴れた。残念ながら先発投手としてはまだ参加することは難しい体だと、自分が一番よく分かっていた。

中継ぎくらいなら少しは、と思わなくも無いが余計な物を言わないに越したことはない。

「羽島さんも君が来てくれたら嬉しいって言ってたぞ」

「えっ本当ですか?」

自分の事を覚えていて下さったことに、僅かながら感動を覚えた。

羽島指令長には数え切れない程お世話になった。

自分が在来線区から上がってきたばかりの時分、右も左もまるで分からない状況が続き周りに迷惑をかけ続けた。

そんな姿を見捨てず根気よく業務内容を教えて下さったのが羽島指令長その人だ。

その恩をお返しする為に今の自分が役に立つならば、いくらでも使ってほしい。

そう思うと、少しばかりやる気が湧いてきた。

「で、いつですか試合って」

「明日」

「はいーー?」

世間は土曜日でお休みかもしれない。しかし自分は仕事で、おまけに早番シフトが入っている日である。まずい事この上無い。

「ちょっと! なんでもっと早く教えてくれなかったんですか」

「きっと君なら断らないと思って。ああ仕事は問題無い、君の代わりに私が入るから」

相変わらず用意周到な指令長である。段取りがとてつもなく良い分、余計に腹が立つ。

あの夜以来、何故か週に一度は指令長とキャッチボールをするような関係になってしまった。

隠し通してきた自分の悩みについて打開策を提示してくれた指令長にはとても感謝している。

おかげで前よりも精神的に生きやすくなってきたのも事実だ。

体も徐々に野球仕様に戻りつつあり、ようやく80m遠投もこなせるまで肩が回復したのは実に喜ばしい。

あとおまけに付けるならば、キャッチボールが終わった後でビールを飲ませて貰える楽しみが増えたこと。

なんでもない雑談をしながら誰かと酒を酌み交わすのがこんなに楽しかったとは、正直思っても見なかった。

しかし、人使いの荒さは以前にも増している様な気がしてならない。

特に今回の急な話はいただけない、一体人を何だと思っているのだ。

とにかく今回は羽島指令長の顔を立てて参加をするのが第一。

指令長には名古屋土産は絶対買わないようにしようと心に決めた。

「詳細は後ほど羽島さんから直接メールがあるから、よろしく頼む」

「やる事はちゃんとやります。けれど結果が悪くても文句言わないで下さいね」

「分かった。それでな、本庄」

指令長がもっと近くに来いと手招きをする。

何か重要な言付けでもあるのかと、彼の側に回って顔を近づけ声を潜める。

「ひょっとして、極秘任務とかそういうのでしょうか?」

もっと重要な事だ、と指令長は眼鏡のブリッジを抑えながら眼光鋭くこちらを見遣った。

「いいか本庄、必ずホームラン1本打ってこい。

尾張名古屋のアマチュア界隈に打率三割近いお前の実力を見せつけてやれ」

年齢を重ねても美しいと評判であるその顔に、非常に極めて殊の外理解に苦しむ事を言われた。

彼を持て囃す連中は恐らくこの見てくれに騙されているに違いない。

何が美しいだ、この人の中身はとんだ詐欺師なんだと大声で宣伝して回りたい。

湧き上がる憤りを抱え、思わず上司だと言うことも忘れて「馬鹿じゃないんですか」と一喝する。

そして怒りに任せて彼の手からチケットをもぎ取り机上の切符もさらい、大股で執務室を後にしようとした。

「本庄」

扉の前で呼び止められ、なんですかとイラつきながら応えて彼に向き直る。

「お前のそういう所が好きだよ」

頬杖をついて指令長は優雅に微笑む。全くもって意味不明な冗談を言う、その態度が最高にむかつく人だ。

嫌な上司世界選手権大会とかあったら絶対余裕で入賞するだろう。

「失礼します」

怒りが頂点に達する前に執務室を飛び出した。

さてこれから準備に大忙しだ、早くオペレーションルームに戻って引き継ぎ資料を纏めなければいけない。

ついでにバッティングセンターの夜間予約も入れた方が得策だ。

今後の段取りを素早く頭の中で整理しながら、自然と駆け足になっていった。





翌日、名古屋に到着したのは朝十時半頃だった。

早朝大宮を出て三時間程度の西の都は今日も快晴、草野球にはうってつけの日だった。

太閤通口を出て約束の場所を探していると、聞き慣れた声が自分の名前を呼びながら近づいてきた。

「おはよう本庄くん、今日は本当にありがとう。いやー助かったよ」

茶色の緩いウエーブがかった髪を一つに纏め、ラフなTシャツにユニフォームのストレッチパンツ姿で現れた羽島指令長は、いかにも草野球おじさんという出で立ちだった。

「おはようございます、お久しぶりです羽島指令長」

名古屋支部の羽島指令長に面と向かってお会いするのは半年振りだ。

電話口ではいつも会話をしているのにこうして実際にお会いすると、なんだか変な感じがする。

「車すぐそこだから。あ、ごはんは食べたかい?」

「新幹線の中で済ませましたから大丈夫です」

実の所、話題の名古屋モーニングは気になっていた。

あんこが付いているモーニングなんて、甘党の自分には天国みたいな話だ。

しかし待ち合わせ時間に遅れてはならないので、今回は泣く泣く見送ることにした。

「試合終わったら美味しいもの食べに行こうな、肉とか好き?」

めっちゃ大好きです、と正直に速応える。

「じゃあ松坂牛ね」

松坂牛。決して庶民には手の届かない魅惑的で甘美なその名を聞き、

今日名古屋に来て本当に良かったと心底思った。

促されて白いSUV型車の助手席に乗り込む。後部座席には野球用具やクーラーボックスなどが沢山積み込まれている。

それを見るだけで、野球部時代の懐かしい思い出が込み上げてきた。

とりあえず先に、と手渡されたユニフォームの上着にある背番号は66だった。

外野手の番号ですねと笑えば、君も結構野球好きだねと感心されてしまった。

羽島指令長は運転しながら今日の事情を教えてくれた。

何やら相手チームは、来春から地元社会人野球部のある大きな会社へ入社内定をしている「凄い大学生」を呼んだらしい。

それだと勝負にならないのでわざわざ経験者の自分を呼んだ、そういう事らしい。

「名古屋支部に野球経験者の人はいなかったのですか?」

「いやー最近の子は皆んなフットサルとかやっててね、野球はやらないんだって」

しょうがないよね、と苦笑いしながら羽島指令長はハンドルを切る。

こんな所で野球人口が減っているのを目の当たりにするとは、思いもよらなかった。

「その凄い学生さんってどこの社会人チームへ入部するんですか?」

「聞いて驚くなよ、本庄くん」

羽島指令長の口から出たのは、都市対抗野球常連の超名門チームだった。

思わず大きな声を上げそうになり、口元を塞ぐ。

「それってほぼプロじゃないですか、ずるいなー」

「だろう? 一人で10点取りそうな感じだよまったく」

いつぞや出水指令長から聞いた1対35の話を思い出して、背筋が凍った。

「その子はショートやってるってのが救いだよ、投手だったらお手上げだ」

彼がセンターラインの一角を担うのであれば、逆方向の長打コースを撃てば点が取れる可能性がある。

とにかく酷い試合にならない様、自分の今出来る事をしようと心に決めた。

「所で本庄くん、守備はセンターでいいかな?」

「あ、はい。打順も下位でお願いします」

出来上がっているチームにお邪魔する身なので、出来ればその輪を壊したくないというのが本音だ。

「あれ、いいの? 出水はもっと打つって言ってたけど」

また余計な事を言ったなあの人は。一体どの程度の事を吹聴したのか、それを想像するだけでうんざりしてくる。

「今朝のメールでね、三割打つから絶対四番入れとけって」

「無視して下さい、お願いします」

物凄い勢いで即全否定する。余りの速さに羽島指令長も引いているのがよく分かった。

それにつけても指令長のメールが予想通りすぎてかえって清々しい。

まるで何かの様式美を見ているみたいだ。

今度キャッチボールをする時は130㎞/hのストレートを投げ続けてやる、

頭の端でそんな事ばかり考えていた。



運動公園内にある野球場に着いたのは、駅を出て三十分程の時間だった。

外観からして本格的なスタジアムで、整備された人工芝グラウンドに綺麗な電光掲示板という良い設備が揃っている。

おまけに午後から借りてもかなり安いと聞き、名古屋における野球環境の充実具合を目の当たりにした。

駐車場から五分ばかり歩いたスタジアム入り口付近の待ち合わせ場所で、今日お世話になるチームの皆さんとやっと合流した。

皆鉄道関係の仕事に携わり、勿論野球経験者ばかりだ。その八割がアラカンで平均年齢は59歳らしい。

そして意外な事に、40代の羽島指令長がこのチームの最年少だった。

自分からしてみれば、還暦前でもこうやって体が動かせるのは凄い事だと思う。

いつかはこんな楽そうな大人になれたらと思うばかりだ。

「ということで、こんなおじさんチームなんだ。よろしく頼みます」

某駅の副駅長さんという人にとても丁寧な態度でお願いされてしまい、思い切り恐縮した。

これは本当にホームランを打たなければならない。拙い実力ですが最善を尽くしますと最敬礼で応えた。

「もー大曽根さんかしこまっちゃって! うちのが緊張しちゃうよ」

羽島指令長の軽口に場が和む。とても雰囲気の良い和やかなチームで良かったと心から思うばかりだ。



試合は相手チームと助け合いながらの準備を経て、ようやく午後1時から始まった。

日差しはやや暑いながらも、真夏の様なべったりとした湿度は無い。

風が吹けば大変気持ちが良いという、まさに動きやすい気候だった。あの夏の記録的猛暑が嘘みたいだ。

一塁側ベンチに入った相手チームのメンバーも、よく見れば元気なシニアの方々ばかりだ。

こちらと同じ位の実力なのだろうな、となんとなく想像した。

ただ、ベンチの右端に座る例の大学生だけは別格だった。

彼はそこにいるだけで存在感がまるで違う、オーラが出ているというやつだろうか。

守備に入りショートを彼の背は恐らく180cmを越えているように見え、全身も野球選手らしく出来上がっている。

幾度も内野ゴロを捌く反応の良さに、あそこには絶対打ってはならないと確信した。

そして二回裏に入り、ツーアウト二・三塁の場面でようやく自分の打席が回ってきた。

投手は50代前半と見受けられ、投げる球種は今の所カーブとツーシームの二つのみのようだ。

確かこの辺が甘いだろうというスイートスポットを見極め、一礼してバッターボックスに入る。

クローズドスタンスで2球待った後に、ようやく待っていたコースが来た。

金属バットの芯に当てる様にヘッドを押し込みコンパクトに振り切ると、ボールは簡単にライナー軌道を描いて前に飛んだ。

白球はあっさりレフトスタンドへ入ってホームラン、三塁側ベンチは総立ちで喜びを爆発させている。

軟球とはいえまさか本当に入ってしまうとは自分でも予想していなかった。

昨夜バッティングセンターに行き、金属バットの芯の位置を再確認しておいたのは正解だった。

内心胸を撫で下ろしながらダイヤモンドを一周してホームベースを踏み、待っていたランナー達と歓声を上げて喜びを分かち合う。

そしてベンチに戻りヘルメットを取ると、皆から喝采を浴びながら背中や頭を叩かれるなどの手荒い祝福を受けた。

羽島指令長には「やっぱり四番にしておけば良かった」と笑いながら嬉しそうに両手で頭をめちゃくちゃに掻き撫でられてしまった。

そしてスコアボードには3の数字が点灯し、現時点でのリードは自チームのものとなった。

一応義理は果たしましたよ、と心の中で指令長に報告しながらスポーツドリンクを口にする。

ふとグラウンドからの視線を感じて振り返ると、例の大学生がこちらをじっと見ているではないか。

逆光でその表情は伺い知れないが、物凄い形相で睨んでいる様な雰囲気だ。

仕事のミスで上司を怒らせたレベルの恐怖を彼から感じ取り、その恐ろしさに身が竦んだ。

とにかく回が終わるまでの間はずっと気持ちが落ち着かず、いっそ狭いベンチ下に身を隠してしまいたかった。



それから試合の流れは凄まじいの一言に尽きる。

先程自分が打った先制ホームランに触発されたかの様な乱打戦が始まり、

全員安打は当たり前、エラーや暴投、ホームランも量産される「馬鹿試合」というやつが繰り広げられた。

投手にとっては狂気の沙汰だが、これぞ草野球の醍醐味といえばそうなのかも知れない。

特にグランドスラムを演出した大学生のホームランは、バックスクリーンを直撃し両チームのメンバーをドン引きさせるには充分な実力だった。

自分のスリーランホームランとはまるで格が違う感じだ。

「いやー彼だけ木のバットでお願いすればよかったかな?」

八回の守備が終わりベンチに戻った羽島指令長は困った顔で笑いながら、首元の汗を拭う。

「多分、僕の所に狙い打ちされてもっと酷い目にあってますよ」

本日痛恨の5エラーを記録した自分が偉そうに言うことではないが、恐らくあっていると思う。

「彼は何を打ったんだろうね、全く分からなかったな」

「多分、内角高めのツーシームだと思いますよ。

彼は高めが好きみたいで五打席全部そんな感じです。ボールゾーンでも振ってきてますよ」

「目がいいな本庄くん。センターからそこまで分かるのか」

羽島指令長はしきりに感心しながら、クーラーボックスから冷えたスポーツドリンクを渡してくれた。

しまった、またいらない事を言ってしまうとは。

これはただの勘ですと誤魔化しながら、渇いた喉に冷たい飲料をゆっくりと流し込んだ。



そしてゲームは九回の表、21対20の辛うじて自軍の1点リードで迎えた。

なかなかのハイスコアゲームだが、それでも試合内容は野球らしい形を取っている。

とにかくこの表の回さえ抑えてしまえば、自分達はなんとか逃げ切り勝ちが出来る。

しかしこういう時にこそアクシデントはつきものだ。特に野球はスリーアウトまで何が起こるか分からない。

順調に一人目の打者を打ち取った自軍の三番手投手だったが、彼が次の打者からピッチャーライナーを受けて負傷してしまった。

これはいけないと慌ててセンターの守備からマウンドに駆け寄る。

負傷した投手は利き足を抑えながらうずくまり、動く事も出来ない様子だった。

ふくらはぎの打撲とは言え舐めてはいけない、とにかく早く手当てした方が得策だ。

羽島指令長の素早い指示で、一番年若い自分が肩を貸して一旦ベンチへ下がった。

「大丈夫ですか、しっかりこれ当てて冷やして下さい」

「すまないね本庄くん」

50代半ばと思われる投手はベンチに足を乗せて腫れ上がる患部に氷嚢を当てながら、続く鈍痛に顔を歪めている。

その痛みの辛さが分かる故に、出来れば早く病院に連れていってあげたかった。

一緒にベンチに下がった羽島指令長は負傷した投手を心配しながらも、困った様子でマウンドを見つめた。

「しまった、今日はもう替えがいないんだった。さて、参ったな」

彼の視界には、ネクストバッターサークルに居る大学生も含まれていた。

本日打率5割のホームラン2本という、流石上を目指す人間は違うと解る成績だ。

そんな彼を自分ならどう攻略するだろう。

彼に関する少ないデータを参考に頭の中で配球と展開を予想する。

これならいけると確信を持つ最短距離の答えまで、思った以上に早々と導き出せた。

「しょうがない、俺がいくか」

羽島指令長の呟きは、こちらに聞こえない位の独り言のつもりだったかも知れない。

しかしその言葉に対して自分の反応の方が素早かった。

「僕が行きます」

断りを入れて負傷した投手のグラブを借り、再びグラウンドに駆け出そうとした。

「本庄くん!」

駄目だ君は、と切羽詰まった羽島指令長の声色で分かってしまった。

やはり指令長は僕の右腕の事を喋っていたようだ、

その上で投手をやらせるなと羽島さんに釘を刺したのだろう。

とてもあの人らしいやり方だ、それは彼なりの自分に対する優しさといえばそうなのかも知れない。

でもそういう優しさはフェアじゃないと思う。怪我の事情は自分から告げるし、マウンドへ上がるのも自分で判断したい。

決して闇雲に判断するのではなく、勝算を見極めた末の事なのだから行ける時は行く。

以前の様に自分を壊してまで勝ちにこだわる自己犠牲では無い、出来る範囲で確実に勝ちに行けるから行くのだ。

腹を決めて羽島指令長の方へ振り返った。そして周りに聞こえないよう小声で確かな意思を告げる。

「9球で仕留めます、それ以上は投げません。どうかお願いします」

「……分かった、9球だな」

全部俺が悪い事にする、と付け加えてくれた羽島指令長はやっぱりいい人だ。

いつかこの人の現場でも働いてみたい、そんな思いを抱いた。

「じゃあ、片付けてきます」

駆け出した自分に続き、羽島指令長は主審に投手の交代を告げに行った。



マウンドに戻ると全員が不安気な表情を浮かべ、こちらに集まってきた。彼らのその気持ちはよく分かる。

「大丈夫です、なんとかなります」

簡単な経緯とこれからの目的だけを簡潔に説明し、マウンドに捕手を残して全員守備に戻って貰った。

自分が穴を開けたセンターには記録員の方が入った。緊急時とは言えとても不慣れな守備位置を申し訳なく思う。

そして遅れて羽島指令長が一塁に入った。

素早く彼の元に駆け寄り戦略を告げると、「そりゃ頼もしい」自分の尻をポンと一つ叩き、笑って了承してくれた。

最後にマウンドで自分を待つ捕手とグラブで口元を隠しながら、簡単なサイン決めをする。

自分の手の内を告げれば、任せてくれと軽くこぶし同士を触れさせ応えて下さった。

理解が早いのは、彼もきっと相当な捕手経験者だからだろう。つくづく自分は女房役運に恵まれている、

一応出水指令長も含めての話だ。

そしてバッターボックスに向き直り、あらかじめ分かっていた対戦相手とやっと対峙する。

迎え撃つ大学生は待ちくたびれたとばかりにバットを何度か振って、こちらを見やった。

目深に被った帽子から覗く視線は鋭く、こちらの喧嘩をありがたく買ってくれる様だ。

投球練習は三球にとどめた、勿論肩なんて出来てないが今はそれでいい。

主審の掛け声で一死一塁展開でゲームは再開した。

一打長打が出れば逆転されてしまう場面、一般的に見てまずその可能性が高いだろう。

初球、2球目と続けて送球はストライクゾーンを大きく逸らし、ボールカウントになる。

3球目はバットに当たるも後ろに飛んでファールボールに、

4球目も同じく打たれて後方バックネットを直撃するファールボールに。

5球目はストライクゾーンすれすれに外した低めボール球となる。

これで3ボール2ストライク、カウントは全て詰まった。

内容からしてみると明らかに投手側に分が悪いように見える。

一塁側ベンチも大学生に奮起を促すよう、一際大声で応援の熱が入っている。

彼はそれに応えるべく、バッターボックス内の後方位置に下がってバットを構え長打コースを狙う。

まるで獲物を射程距離内に捉えたハンターの様だ。

だが自分はこの時を待っていた。

続けて6球目。これも彼は打ちにきて、後ろに逸れたファールボールになる。

7球目、これも同じ様なファールボール。

なかなかボールは前に飛んでくれない苛立ちに、打者は二三度首を振って息を吐いている。

8球目はライナー制のファールボールが三塁側スタンドに入り、周りをどよめかせる。

きっと次こそ彼は打てる、打ってくれるに違いないという雰囲気が球場を包んだ。

両軍緊張の一瞬、自分は顔色一つ変えず9球目を投げた。

これは仕留めた、とばかりにバットを振り切る彼の表情に異変が起こる。

「なに」という声がマウンドまで聞こえた様な気がした。

打った打球は確かに前にいく、しかしそれは平凡な内野ゴロとなった。

そしてショートのグラブへ綺麗に収まると、二塁次いで一塁へと慎重に送球される。

出塁していたランナーと一塁へ走る大学生は余裕でアウトとなり、これでスリーアウト。

まるでお手本の様なダブルプレーが演出されてゲームセット、派手さも華麗なプレーも無い実に呆気ない幕切れとなった。

互いの健闘を讃え合い、一同が一礼の後にゲームの終わりを主審が告げた。

3時間55分のエキサイティングでめちゃくちゃな試合だったが、自分の復帰戦としては贅沢過ぎる内容だった。

9年振りにチーム戦の楽しさとマウンド上の孤独と狂気を肌で感じ、忘れかけていたものがまだ自分の中にあることを実感した。

忘れたくて記憶から無理やり消していたのに結構覚えているものだな、ともう一度マウンドを見やった。

そういえば怪我をしてしまった三番手は、あれから仲間とすぐ病院に行ったと羽島指令長から教えて貰った。

なんとか早い回復を望むばかりだ。

そして全体的な後片付けの後グラウンドを見回すと、三塁付近に整地用具が残されているのが目に入った。

そのままだと危ないので、収めに行こうとした時だった。

「あの」

例の大学生がホームベース側から声を掛けながらこちらに近づいてきた。

やばい、きっと最後の打席の事で来たに違いない。

のしのし歩くという表現が似合いすぎる彼に、178cmしかない自分は会話をする前から緊張して既に及び腰となっていた。

「ぼ、僕に何かご用でしょうか?」

目の前に立たれ、精一杯彼の顔を見上げる。

マウンド上では分からなかったが思った以上に彼は長身だ。その壁みたいな威圧感に、つい足が竦んでしまう。

このまま取って食われたらどうしよう、そんな馬鹿みたいな事を本気で思った。

「最後の9球目は何を投げられたのか、教えて下さい」

はい? と我が耳を疑う。

セミプロならばどんなボールが来たか、なんとなく分かる筈ではないだろうか。それとも自分は彼に試されているのか。

「えっと、内角高めのシュートです。ちょっと速めの」

年下相手にしどろもどろで答える。三十路前の男が情けない事この上ないが、怖いものは怖いのだから仕方ない。

「ずっとスライダーばかりだったのに、どうして最後はシュートに?」

どうやら配球の謎は彼には解けていないらしい。

しかしながら全部説明すると冗長になってしまう、一番重要な事だけを提示すれば彼なら分かってくれるだろうか。

「スライダーは全部見せ球だったって言ったら分かります? ど、どうだろう」

彼はハッとした表情となり、ああそうかと声を上げて天を仰いだ。

やはり理解が早い、こんな情報だけで彼には9球のカラクリが分かってしまったらしい。

「あの、今日貴方と勝負出来て本当に良かったです」

「僕もです」

「自分、勉強不足なのがよく分かりました」

「いや、あの、なんていうか。スライダーをカットするのは重要だと思うよ。

硬球だともうちょっと遅いから、きっと合わせられると思うし……えーと」

自分でも何が言いたいのか、うまく意見が纏まらない。

しかし大学生君は頷きながらこちらの意見に耳を傾けてくれている。

「参考までに、最後の球を打つにはどうすればいいか教えて下さい」

「足が早いなら一塁線に転がすセーフティスクイズがいいと思います。

できれば千葉の球団の試合とか参考にして。あ、守備位置を確認しての話ですが」

大学生君は尻ポケットから取り出した小さなメモ帳に何かを書いている。

そこに自分の拙い意見が記入されていくのがなんだか申し訳ない気分になってしまう。

「ありがとうございました、自分もっと練習します」

「頑張って下さい。来年の夏、是非東京ドームで君の姿を見たいです!」

レギュラー取れるよう頑張ります、とはにかんだ顔は正に野球少年がそのまま大きくなった様な感じだ。

こんな素直な大学生なんて、このご時世そうはいない。そんな好感度の高さから、ちゃんと今日の話がしたくなった。

もし良かったらいつか場所を変えて、と言いかけたその時だった。

「どうもー出水でございます。本庄を回収に参りましたー!」

聞きなれたあの声が三塁ベンチ内から朗々と響き渡った。

振り返ると、やはりあのいつもの出張スタイルで彼が居る。

まさか、なぜ、どうして? 出水指令長がここにいるのだ。

なにより、自分の代わりに入ったという仕事は一体どうしたのだ!

「さあ帰るぞ本庄、皆さんにご挨拶を忘れるなよ」

指令長は早々とベンチ奥に姿を消した。これは付いていかないとやばいヤツだと本能が警告する。

「ごめん、続きはまたラインで。悪いけど羽島さんに聞いて!」

唖然とする大学生君に要点だけを伝え、三塁側ベンチに向かって駆け出した。

「皆さん今日はありがとうございました。羽島指令長、ユニフォームの事とかまた色々連絡します」

ベンチ内にてお世話になった方々へ深々と頭を下げると、スパイクをスニーカーに履き替え荷物を取る。

その間約3分、別れを惜しむ暇もなく指令長の背中を追ってスタジアム出口への廊下を疾走した。



駐車場で待たせてある小型タクシーの後部座席へ指令長に次いで乗り込むと、車は来た道をゆっくり走り始めた。

乗車後しばらく無言だった彼は、5つ目の信号を過ぎた所でようやく口を開いた。

「どうして投げた?」

表情は冷たい指令長のままだが、低い語感に含まれる怒りが尋常では無い事を物語っている。

下手な言い訳よりも正直に話した方がいい、先程のマウンド上より緊張しながら言葉を選んだ。

「怪我人が出て、代わりに投げる人が居なかったからです」

「だからと言って君が行くことはないだろう」

羽島さんだって投げられた筈だ、と指令長は厳しく指摘する。

確かにそうだ、最初は彼が行こうとした。でも結果的には自分がマウンドへ行った。

「また人の顔色を伺って投げたのか? 自分の体は二の次にして」

「違います」

「前準備も無いのに実践に耐えられる腕だと思ったのか」

「そうじゃないです指令長」

「皆にいい顔したかっただけじゃないか、お前は今迄通りに!」

「勝算があったから行ったんですよ! そうじゃないと行く訳ないでしょ、あんな怖い所へ!」

マウンド上ではなるべく平静を装っていたが、本当は必死で恐怖を押し殺していた。

いつまた何かの拍子で腱が切れるか分からない。あの怖さは、今でも恐ろしくて堪らない。

「どうして……自分から苦しい目に遭いに行くんだよ、本庄」

指令長が辛そうな顔をしながら、自分の右手を労わるように自身の左手を重ねてきた。

大宮限定の自分専属捕手の左手は、外見からは分からない突き指経験の多い傷だらけの手だ。

それでも自分はこの手が大好きだった。

「確実に勝てる勝負があったからです。それを捨てるなんて、僕には出来ません」

「馬鹿じゃないのかお前は」

先日、指令長の執務室で自分が彼に放った一言とイントネーションがほぼ同じだった。

故に、嫌悪が含まれていないのがよく分かる。むしろ、呆れられているのだろう。

「馬鹿なんですよ。自分でも困るくらい未だに僕は投手だって、グラウンドで勝負していたら分かっちゃいました」

重ねた彼の左手に指を絡ませて繋いだ。折り重なる指からより彼の体温を感じて、酷く怒られているのになんだかほっとする。

向こうっ気が強くて確かな勝負勘が利く、投手として兼ね備えたものは今平凡な道を生きる自分にとって全く必要無いものだ。

けれど、その本性を見抜いた人だけには分かって欲しい。

自分はそんなものを後生大事にしまっていて、いつでもそれを武器に出来るということを。

指令長は目を伏せ、息を吐く様に「分かったよ」とだけ呟いた。

お互い学生の様に論をぶつけたせいか、指令長の頬も上気している。

まるで恋人みたいに絡め合った指もなんだか気恥ずかしくなってきて、自分からゆっくりと解いていった。

一連の青臭いやりとりが今更照れ臭くて仕方が無い。

「……とにかく、明日は必ず整形外科に行ってきなさい。開いている所を教えるから」

大宮はプロスポーツが集まる都市だけあって、休日も開いている整形外科もある。

今現在腕の痛みは無いが、これまでの事も含めて一度専門家に相談してみたかった。

素直に指令長から連絡先を聞き、後ほど予約をするべく個人用スマホにメモを残した。

「で、本庄。そろそろ種明かしをしてくれないか」

何でしたっけ? と借りたユニフォームの上着を脱ぎながら首を傾げる。

「さっきの9球だよ、どうやって強打者を打ち取ったんだ?」

「因みにいつから見てたんです?」

「初球からだよ」

まるで保護者に見られていたかの様な参観日的な思いが込み上げてきて赤面した。

その位には恥ずかしくてたまらない、出来れば見ていて欲しく無かった。

「笑わないで下さいよ指令長、びっくりする程子供騙しな手なんですから」

簡単に畳んだユニフォームを鞄に仕舞って、入れ替わりに出した青いパーカーを羽織る。

ついで疲労回復用のゼリー状飲料も出し、指令長に断りを入れて半分程度口にする。

これだけは相変わらずあまり美味いものではない、という感想しか出てこなかった。

「対戦相手は僕との打席まで殆ど内角高めの球を好んで打っていました。

ということは、打たせたい球はそこに投げたら勝手に打ってくれるという理論ですよね」

「しかし本庄、他のコースを打ち崩してくる場合もあるだろう」

「その場合は、前に飛ばない球を投げて行けばいいんです。

今回の彼は右打ちなので緩急つけた左に曲がるスライダーがそれ。

スライダーって長打打つタイプの人には嫌な変化球ですよね。

手元でカクッと落ちるから、自分の打撃フォームしっかり持ってる人だとタイミングをずらされてフォームが崩れる。

それで捉えにくいから打った球はファールになる」

「なるほど、とにかくファールを打たせるのが目的か」

「そう、それが種明かしの一段階目です」

残りのゼリー飲料を飲みきり、潰したゴミを鞄の中に入れておく。

「打席に入って、打てない変化球ばかり来る。

それでもってカウント詰まったら、指令長はどう思います?」

「凄く焦るな、早く打ちたいって気分になるよ」

「そういう気分になって貰う為に、わざとボール球とかを混ぜてカウントを詰めました。これが二段階目」

頷きながら指令長は脚を組み替える。

「カウント詰まった以降は、もっと速いスライダーをストライクゾーンに投げます。

こちらとしてもフォアボールでランナー出したくないですからね」

お前はコントロール良いからお手の物だろうと指令長から褒められた。

捕手からの評価が高いと、やっぱり嬉しくなってしまう。

「しかし本庄、長打者は速めの球が好きだろう。

いくらスライダーでも打たれる可能性もあっただろうに」

「打席内で一度崩れたフォームは立て直すのが大変ですよ。

プロならすぐ修正してきますけどね、アマは余程練習しないと難しいです。

だから速球スライダーでも絶対打てない」

「そんな事まで考えてマウンド上がってるのかお前は」

「だって勝ちたいじゃないですか。相手はセミプロだからこれ位の戦略は練らないと」

「……今度からお前を東日本支部の戦術担当に任命しようか」

やめて下さい畑が違います、と必死で指令長を止めた。そういう事は全く自分に向いてないので、本当にやめて欲しい。

「で、話は戻りますけど。

打てない時に自分の得意なコースが来たら指令長はどうします?」

「そりゃ、打つに決まってるだろう」

「どんな球か分からなくても?」

あー、と指令長は膝を打って感心したように何度も頷いた。

「話は一番最初に戻します、彼が好きなコースは」

「内角高め、そこに決め球のシュートを持ってきた訳か。そうか、成る程」

「シュートってスライダーと似てるけど、逆側に曲がる変化球ですよね。

スライダーは左でシュートは右曲がり。

彼は右打ちでしたから、いきなり右曲がり高めの球にはびっくりしたと思います。

でも打てるから振る、当たる。だけど球は回転数が多いから」

「当たってもボテボテのゴロになる」

「そういうことです。だから勝算があったって事で」

「見事だ本庄、完璧だな」

「いわゆる初対戦相手用の「初見殺し」の技です、

次からは絶対に通用しません。あと、攻略方があるんですよこれ」

「……当てていいか?」

意味深な笑みを浮かべる指令長に対して、どうぞと促す。

「バッターボックスに入って勝負せずに突っ立って、フォアボールを待っておけばいい」

「さすがは指令長、エクセレント」

手を叩いて喜ぶ。

「今回のポイントは、大学生君が僕と勝負してくれるかどうかです。

あれを回避されていたら間違い無く自軍の負けでしたね」

やっぱりそうか、と指令長は頷く。

実際彼が勝負してくれて本当に助かったのだ、真っ向から対戦してくれた彼に感謝しかない。

そんな時、お互いのスマホへラインの着信音が響いた。

送ってきたのは羽島さんで、どうやら同じ内容らしい。

「羽島さん、今日の試合本当に感謝しているみたいだな」

「こんなのでもお役に立ててなによりです」

自分の野球経験が初めて役に立てた事に新鮮味を覚えた。

もう壊れてしまったままだと信じていた腕が、全盛期の三割程度は働いてくれた事実が少しだけ自信に繋がった。

あとの七割は臆病なままだけれども、今はそれでいい。

「本庄、この最後の行にある松坂牛って何だ?」

自分の世界から我に帰り、今一度内容を読み返す。

そうだった、羽島さんとは打ち上げで松坂牛を食べに連れて行って貰う約束をしていたのだ。

だのに、何故自分は今タクシーの中に居るのだろうか。この現実がどうしても受け止められない。

「……ひょっとして俺が悪い? 本庄」

指令長に応える事も出来ず、なんとも情けなく悲壮な声を上げながら前屈みで頭を抱えた。

タクシーはもうじき名古屋駅ロータリーに着く頃合いだった。



それからどうやって東京まで辿り着いたのか、断片的な記憶しかない。

気を遣って弁当を買ってくれた指令長は、今度埋め合わせをするからと必死の様子だった。

そして帰りの新幹線では指定席にも関わらず、何故か指令長と並びの席になっていた。

もうそれすら突っ込めない程に自分は憔悴していた。

実際朝が早かった事に加え疲労感もあり、弁当もそこそこにして眠りに落ちてしまった。

頬に当たる窓ガラスの冷たさも気にならないほど、もうただひたすら眠い。

どのくらい経った頃だろうか、指令長がもうじき新横浜だから起きろと声をかけてきた。

「しながわまでねかせて」

「いいから、すぐ着くから起きろ」

「いやだー……」

今は一分一秒でも眠りたい。

抵抗する様に彼に背を向けてパーカーのフードを被ると、席の端に頭を預けて再び眠りに落ちる。

暫く後、右耳元あたりで艶っぽい声がする。起きないとキスするよ、と。

聴いたことも無いような色香を含んだ指令長の甘い声がくすぐったくて一度身じろぎしたが、やはり睡魔には勝てなかった。

眠い、もうなんでもいい、眠いのだ。

「いーですよ……しても」

もつれた声で応えた後、又もや崩れ落ちる様な形で眠りについてしまった。



次に起こされたのは、東京駅到着間際だった。

指令長におでこを叩かれ手痛い目覚めを味わい、急かされる様に新幹線を降りた。

「私は用事があるから、ここで」

「お疲れ様でした、指令長」

「いいか、明日ちゃんと病院に行くんだぞ」

子供扱いしないで下さい、と憤ると指令長は笑って手を振りやがて雑踏の中に消えていった。

色んな事が有りすぎる長い一日だった。例えるなら一週間分の仕事を一日で済ませた様な、そんな詰め込み具合が酷い内容だった。

とっておきの松坂牛を食べそびれたのは残念極まりなかったが、右腕も体も怪我なく終わったのでいいことにしよう。

「さて、帰りますか」

在来線乗り換えのホームに急ぐべく、荷物を肩がけにした時だった。

右肩辺りから爽やかな香りが漂い鼻腔をくすぐった。

はて、何の香りだろうか、柑橘類の香りがするのだが今日は蜜柑などを食べた記憶がまるでない。

「まあ、いいか」

気にするまでの事はない。パーカーのフード部分を整え、柑橘類の香りを纏ったまま再び歩き始めた。

次の新幹線の到着を告げるアナウンスがホームに響き渡る。

人の往来が増えてしまう前にと、乗り換えへの階段を急いで駆け下りていった。





その3日後、東京ドーム観戦は滞りなく決行された。

CS出場争いの渦中にあったホームチームのファンの熱気がいつもより激しく、周りは常に熱狂的だった。

その間、自分はというと目当てのコーチを目で追い写真を撮りまくる事だけに集中していた。

相変わらず隣でビールを飲みまくる指令長もこの行動には流石に引き気味の様子だった。

自分としては野球観戦至上、大変有意義な時間を過ごせたと満足している。

そして翌日、指令長からキャッチボールの誘いが午前中に個人用のスマホに届いた。



「昨夜はずっとあのコーチしか見てなかったな、本庄」

呆れた顔で指令長は直球を投げてくる。

「最初からそのつもりで行ったんですから、いいじゃないですか」

「野球オタクの鑑だな」

「うるさいですよ、放っておいて下さい」

開き直り気味にむくれながら緩いボールを投げ返す。

「あのな、羽島さんから昨日遅くに連絡があったんだ。お前の事で」

「仕事の話ですか?」

「それだったら昼間にしてるよ」

指令長は、ここじゃないと話せないんだと言いながら山なりのボールを投げて返す。

「この間の土曜日の試合に大学生が居ただろう。

彼が入部する社会人チームの編成部長さんがな、お前に一度会いたいらしい」

「僕に?」

寝耳に水の話に、思わずグラブの中のボールを落とした。

「どういう経緯か分からんが、お前の投球術は高く評価されたらしい。

おそらくあの時のスタンドにこっそり暇な奴がいたのかもな」

アマの試合にも偶にだがそういうのを見に来る企業や球団の関係者がいたりする。

多分、大学生君を見に来たついでに自分の初見殺し技が目にとまったのだろう。

指令長はうろたえる自分を気遣い、一旦中断しようと手を挙げて提案した。

そして、グラブを外して佇む自分の所にまで来てくれた。

それはまるでマウンド上で困っている投手と、その様子を伺いに行く捕手そのものの光景みたいだった。

「色々クリアする条件は多くて厳しいと思うが、プロ選手への道はまだあるって事だ。

どうする、会ってみるか?」

「えと……あの」

頭の中で懸命に情報を整理する。自分のやり用によってはプロ野球選手になれるかも知れない可能性がある。

閉ざされた道に一筋の光明を見出したかの様なありがたい話だ。

勿論、そこに辿り着くまでには想像を絶する努力が必要な事は理解している。

「あの、日曜日に紹介して頂いた医者に行った話なんですけど。

検査の結果、お医者さんは肩も肘もきちんと治っているって診断してくれました」

それはよかったじゃないか、と指令長は我が事の様に喜んでくれる。

「あと、カウンセリングの先生とトレーナーさんも紹介して貰えました。大宮駅近くの」

「じゃあ会社帰りに寄れるな。便利になったな最近は」

ミットを外しながら、俺も一度整形外科に行ってみようかと指令長は左手をしげしげと見つめる。

「部に提出するメディカルチェックはクリア出来ると思うんです。でも……」

「でも、何だ? 本庄」

未知数の未来に対してすぐ答えを出すのは賢明ではない。

しかし、自分の中には既に揺るがないものが確立されている。だから答えはもう決まっていた。

「僕、編成部長さんには会いません」

毅然とした態度で思いを告げた。そんな自分に対して「あらまあ」と指令長は呑気な声を上げた。

「まず年齢的なものです。

社会人チームに二年在籍して運良くドラフトでプロに入ったとしても、その時点で僕三十代ですからね」

「三十過ぎでプロになる社会人選手とか、偶にいるじゃないか」

「彼らは別格です。そこまで人の何倍もの努力と何年間も諦めない才能があってこそのオールドルーキーですから。

はっきり言って、今の僕にはその覚悟が足りません」

「そうか」

少し残念そうな顔で指令長は腕組みをする。

もうそれ以上の事は聞かないでいようとする態度だったが、構わずに続けた。

「あと、僕は今の仕事好きだから辞めたく無いんです。

ここにいるスタッフ全員が同じ未来の方向を向いている、そういう組織ってなかなか無いですよね。

そんな東日本支部にずっと居たい、それが一番の理由です」

自分より頭半分程背の高い指令長に向かい、真っ直ぐその瞳を捉えて告げた。

少し冷めた表情の後、直ぐにいつもの柔和な指令長の顔に戻って一度頷いた。

「そう言って貰えると、上層部的には嬉しく思うよ」

「指令長個人としてのご意見は?」

「そうだな。キャッチボールの相手が居なくなるのは困る」

「うわ、なんですかそれ」

もっと良いコメント下さいよ、と文句を言いながら落ちたボールを拾い上げる。

軽口にしてもちょっと冷たい指令長だ。

「じゃあ羽島さんには俺から伝えておくよ」

「いえ、ちゃんと僕から連絡します。せっかくのお話でしたから」

ならよろしく、と指令長は軽く肩を叩いた。そして二三歩距離を置いて、再び自分に向き直った。

「あのな、本庄」

「どうしました、今日はもうお開きにしますか?」

「本当はな、俺の所で潰しとこうと思ったんだ。この話」

指令長の口から信じられない言葉が聞こえた。どういう意味なのか、いまひとつ分からない。

「それって、あのどういう」

「つまらん劣等感と嫉妬だよ、本庄」

冷静に語る指令長から嫌な雰囲気を感じた。

今まで過去幾度も思い知らされた、自分へ向けられるあの灼けつく様な悪意に似た空気だ。

「指令長が僕に? なんで、いやーそれあり得ないですよマジで」

なんとか取り繕い場を収めようと、いつもの様に道化に徹する。

本当はもうこんな事をしたくないのだが、穏便に済ませたい気持ちが自分の中で優先された。

「男の嫉妬は醜いぞ、本庄」

自虐的に語りながら、こちらとの距離を詰めてくる。

嫌だ、こんな彼は。

体が勝手に逃げを打ち、グラブとボールを取り落とす。

大事な道具を拾おうとした隙をつかれ、指令長に右腕をからめ取られてしまった。

そして指令長はすかさず自身の許へ引き寄せ、バランスを崩した上半身を掬う様に抱き留める。

「ちょっと、指令長?」

抵抗しようにも自分の左肩口に指令長は顔を埋めてしまい、まるで身動きが取れない。

そして彼は自分を強く抱き締めながら、聞いた事もない様な低い声で語り始めた。

「いいか本庄。才能ある人間ってのはどう隠れても見つけられるんだよ、本人の意思と関係無く。

才能の無い人間が泥に塗れ死ぬ程努力しても、絶対そいつらの能力には到達しない。

そして平凡なまま終わる。そういうもんなんだ世の中は、おかしいと思わないか、なあ?」

呪いのような言葉に一歩足りとも動けない。

「お前の実力は本物だよ、こんな所に居ちゃいけない人間なんだよ。

でもな、俺は敢えてお前にここに居て欲しかったんだよ、何故だか分かるか?」

指令長の顔は伺い知れない、でもきっと酷く醜い卑屈な顔になっているのだろう。

一生絶対誰にも見せない、これまで多くの闇を背負ったであろう顔だ。

「才能ある人間が、俺の手で握り潰した千載一遇の好機も知らずに平凡に生き続ける姿を見て優越感に浸りたかったんだよ。

いつまでも手元に置いてな、こいつは自分達と同じ所に堕ちたって姿を眺めたかったんだよ」

寂しい独白を笑いながら続ける指令長は、それでも小さく震えていた。

結局はこの人も自分を同情と共に見下していた側だったらしい。

彼の正体は自分が最も忌み嫌う、狡猾で酷薄な人間だったのだ。

「でもな……出来なかった」

自分を抱く腕の力が少し緩んだ。

暫しの沈黙が互いを包み込む。

地下深いこの静寂の中で彼と自分の鼓動だけがこの世界に存在するような、そんな錯覚を覚えた。

やがて、指令長の啜り泣きが聞こえてくる。笑ったり泣いたり、忙しい人だ。

「その出来なかった理由、聞いてもいいですか?」

指令長が顔を埋めている肩口が冷たく濡れた感じがする。これは結構泣いているみたいだ。

これだけ人をコケにしておいて、何故この人は泣くのか。

その涙の理由は人生経験値が低い自分には分からないが、多分そこには色んな感情が含まれているのだろう。

本当にしょうがない大人だなあ。

そっと彼の背中に両腕を回して、子供をあやす様に何度も撫でて落ち着かせてやる。それに応えるよう、彼は嗚咽を漏らす。

「お前が単なる才能の持ち主じゃなかったからだ……」

「そうでしたっけ?」

「お前は、地獄を見てきただろう」

人から指摘されると、それもそうだなと遠い昔の話の様に感じる。ほんの二ヶ月前までそれに苛まれていたというのに。

「地獄を見てなお一人で苦しみもがいて、どうにか逃れようと足掻くお前を間近で見ていたから、出来なかった」

今冷静に振り返ってみれば、確かにあれは地獄だった。

今もマウンドへ上がった時の恐怖など軽度のトラウマは残るものの、あの精神状態をよく9年も我慢出来たものだと不思議な気持ちになる。

我ながら結構忍耐強いものだ。

「そういうお前からまた希望を取り上げたりするなんて事、出来ない」

痛ましい声が静かな場内に響き渡る。

「嫉妬以前に、俺はお前が可愛いんだ。可愛くてしょうがない。

だからお前がまた苦しんだり辛い目に遭うとか……想像しただけでも嫌なんだよ」

保護者的な愛情をこの人からよくよく向けられていたのは分かっていたが、まさかここまでとは思ってもみなかった。

なんだかんだ言って愛情深い人なのだ、この人は。

だから、どんなに狡猾で酷薄でも憎めないのだ。

一層激しく泣き出す指令長を宥めながら、昔母親がしてくれた様に彼の左耳あたりに軽く口付ける。

そこから薫る彼自身の匂いと相俟った柑橘系フレグランスの芳しい香りに、あの時の香りはこれだったのかと今更納得した。

残り香をわざと残したかったのか、それとも単なる悪戯した時の忘れ物か。今となってはどっちでもいい。

しかしこうして自分から告解する辺り、彼はやはり真面目で正直な人なんだなと苦笑いしてしまう。

保護対象の前ではどうにも悪人に成りきれない、そういう人間臭い彼が嫌いになれない。

「指令長がちゃんと僕に伝えて下さったから、自分自身で考えて決断出来ました」

ありがとうございます、ともう一度左耳辺りに親愛の口付けを落とす。

「お人好しだな、お前は」

指令長程じゃないですよ、と笑う。

「野球に連れていってくれたり、飲みに連れていってくれて話聞いて下さったり。

あと心配だからって仕事サボって名古屋まで迎えに来たり。指令長ってかなりいい人ですよ」

そんな事はない、と顔を埋めたまま首を振り指令長は応える。

「あの時キャッチボールやろうって誘ってくれなかったら、多分この話もなかったですよ。

僕はずっと自分の殻に閉じこもってばかりのつまんない人生で終わっていたでしょうね。

あ、指令長的にはそっちの方がいいですかね?」

意地の悪いことを言うな、と指令長はバツが悪そうに口籠る。

「僕は貴方みたいな大人になりたいです。今日みたいな事があっても、思いは変わりませんよ」

我ながら恥ずかしい言葉だが、一度この人の前で言って見たかった。

まだ顔を伏せている指令長の耳が赤くなっている辺り、かなり照れているのかもしれない。

「まあでも、僕がドラフト3位でプロになって指令長の年収なんてあっという間に抜いて、

下関あたりで河豚でも奢るってのも悪くない未来ですねー。頑張っちゃおっかなー」

「何だと」

不機嫌そうな声と共に指令長はやっと顔を上げた。その顔は美しいとは到底思えない40過ぎ中年男の酷い泣き顔だった。

でも自分としては、こっちの顔の方が好きなのだ。

「嘘ですよ。僕は指令長が定年迎えるまでキャッチボール付き合い続けます。

だから、ここをクビにしないで下さいね」

「お前の努力次第だぞ、本庄」

善処します、と笑いながら回した腕を解いた。指令長も名残り惜しそうに体を離すと、眼鏡を外してハンカチで涙と鼻水を拭う。

そしていつもの端然とした指令長に戻ると、足元に落としたキャッチャーミットを拾い上げ埃を払った。

自分も抱き寄せられた際に取り落としたボールとピッチャーグラブを拾うと、左手に装着する。

そろそろ自分用に買った方が良さそうだと借りたグラブの感触を何度も確かめる。

ネット通販よりも一度用品店に行ってみたい、指令長はそういうのを知っているだろうかと声を掛けようとした時だった。

「あ、忘れていた。本庄」

何気無い呼び声へ、無防備に顔を上げた。

その隙に指令長は自分の左頬に手を添え、慣れた動きで深く口付けてきた。

遠慮も無く入り込んだ彼の舌が自分のものとゆっくり絡み合い、その巧妙な動きに翻弄され口内をいいように弄られる。

自分の感じるポイントを探り当てられ、角度を変え執拗に攻められる。一分かそこらでとうとう腰が抜けて、その場にへたり込んでしまった。

誰ともした事のないような官能的で濃厚なキスは余韻がいつまでも尾を引き、動悸が治らない。

男から、ましてや上司からキスされた事実よりも、世の中にはこんなに痺れる快楽があったのかという衝撃の方が自分の中で強烈な印象を残した。

いかんせん気持ちよすぎる、いやここで流されてしまったら大変な事になる。口元を押さえながら必死で声を上げた。

「な、なんて事するんですかちょっと! セクハラだ!」

「お前が新幹線の中でしていいって言ったから同意の上だ。とりあえず、あの時してなかったからいいかなと」

あと買ってやった松坂牛弁当代、と大真面目な顔で指令長は応える。

「訳わかんないっすよ、もう!」

なんとか気力で立ち上がり、18.44m離れた位置まで走って振り返りざまにボールを投げる。

楽々キャッチする指令長は余裕の表情を浮かべ、楽しげに口角を上げている。

さっきまで自分に縋って泣いていたのは一体どこのどいつなんだ。

腕が治ったからにはもう容赦しない、今日こそ130㎞/hのストレートと捕り難いフォークボールを投げ込んでやると心に誓った。

「指令長なんか、僕の才能にずっと嫉妬していればいいんですよ!」

「言うね青二才、今度はベッドで仕込んであげるよ」

「うるさいこのセクハラエロ親父!」

品の無い罵声の応酬を繰り返しながら、今週のキャッチボールは午後9時過ぎても終わらなかった。















お帰りはブラウザのバックで。