=18.44m=
「神宮のチケットがあるんだ、明後日の試合だよ」
出水指令長の執務室に呼び出された本庄は、目の前に差し出されたプロ野球のチケットに驚愕した。
試合は贔屓チームと昨今人気急上昇チームのカード、そして席番はバックネット裏のSS席だ。
ここ数年転売が問題になっているプレミアムチケットである。
「どうしたんですか、これ」
「出処は聞くな本庄。明後日の東京出張の後にどうだい?」
畳み掛けるように予定を入れられ、即二つ返事で了承した。なかなかチケットが取れない試合なのだ、行かない筈が無い。
おまけに密かに慕っている上司が誘ってくれたというのがまた嬉しくもあり、楽しみが増した。
しかし指令長は何故自分を指名したのだろう、ここにはもっと他に野球好きは居る筈だというのに。
ひょっとしたら行けなくなった誰かの代わりに選ばれただけなのかも知れない。そうだとしたら、その人には申し訳ないがこの度は運が良かった。
知らず笑みを浮かべながら、本庄はチケットを受け取った。
「やっぱり本庄は野球が好きなんだな」
執務室を後にしようと一礼した際、指令長から思わぬ言葉をかけられた。
野球が好き、額面通りに受け取るべき言葉なのだろう。しかし「やっぱり」とはどこにかかるのか、まるで自分の野球歴を知っている様な口振りではないか。
少なくともあれは研究所内の誰にも言ってないのに何故。複雑な思いが絡み、模範解答がどうしても出てこない。
「はい、まあ、少し」
上司の意図も汲めず、曖昧に答えてそそくさと扉を閉めた。確かに好きな事は好きだが、好きではないといえばそうかも知れない。
正確には「野球が出来ないから好きではない」そういう事なのだ。
長い直線状の廊下をオペレーションルームへと向かいながら、本庄は後悔のため息をついた。
先程の上司への返事はまずかった。正直あれは無い、もう大人なのだからもっと要領良く立ち回ればいいものを。
会社でのコミュニケーションとは、つまらない自分のこだわりなど隠しておくのが定石なのに。それが出来ない自分が情けなかった。
「野球かー」
気が付けばもう9年もグラウンドに立っていなかった。本庄はゆっくり歩きながら、腕を振るだけの軽い投球動作を繰り返す。
ガラス窓に映った己の姿は、あの頃とまるで違う何処にでもいる平凡な会社員そのものだ。そういう道を選ばざるを得なかったのは事実だが、
この生活には概ね満足している。
しかし未練が無いかと問われれば、どうだろう。
「もう痛くない、かな?」
立ち止まってそう呟くと、本庄は辺りを見回した。今なら誰も居ない、警備用の防犯カメラは有るがこれからする事を見られた所でどうという事も無い。
チケット入りの封筒を落とさないようにとジャケットの内ポケットへ仕舞い込み、しんとした廊下の先を見据える。
18.44mの先にある内角低めのゾーンを捉えてワインドアップの姿勢を構える。
左脚を軽くあげ軸足が支える体幹を意識し、自分のテンポで次の瞬間大きく前に踏み込む。
右腕がしなやかにしなる角度はややサイドスロー気味のスリークォーター。
リリースポイントをより前方に意識して見えない球を投げれば、右肩から手の甲にかけて通電した様に鋭い痛みが走った。
「あー……やっぱまだダメか」
本庄はまるで他人事の様に、シャドウピッチングを終えた右腕を摩った。
今更何やってんだろう、と自嘲気味に笑う。野球の事を尋ねられてうっかり思い出してしまったせいだろうか。
しかし現実は残酷なもので、いくら自分がやりたくてもどうやっても「出来ない」のだ。
考えれば考える程、自分の存在が惨めに感じてくる。やり切れない感情と共に、本庄はもう一つ大きなため息をついた。
切り替える様にやや乱れた制服を整えると、まるで何事も無かったような体で再び自分の持ち場へ帰る。その足取りは重かった。
当日、本庄は出水と共に代々木の本部に向かった。出水が本部長級会議の為、本庄は彼の代理で安全協議会への出席を仰せつかった。
こちらから提示する資料は流石に機密事項の多さ故にかなり省略されていたが、それでも各部署の担当者との活発な意見交換は本庄にとって有意義なものになった。
これも勉強の一つだ、所属する機体の運用に今後役立てられれば尚の事良い。
そして午後5時過ぎ、本部受付前で出水と落ち合った本庄は徒歩で神宮球場まで行く事になった。
「悪いね、歩かせて」
「いえ、試合の日は電車より歩きがきっと早いですから」
代々木から一駅ちょっとの距離は五月の夕暮れに歩くには丁度良い。むしろスーツの上着が邪魔になる程の初夏の暑さだった。
きっとビールが美味しくなるでしょうと冗談めかして笑えば
「全銘柄飲めるかもしれないな」
などと酒豪らしいコメントが返ってくる。この上司は今夜も一体どれだけ呑むつもりだろうか。
所々寄り道をしつつ今日の両先発やスターティングオーダーの話題でひとしきり盛り上がれば、球場を象る大きな外壁が見えてきた。
話は尽きないが、どうやらいつの間にか現地に到着していたようだ。
いつもとは違う番号のゲートをくぐりスタンドへ入場すると、眼下にコンパクトな造りの人工芝グラウンドが広がる。
古い球場だが、芝の緑色とフェンスの紺色のコントラストが美しくていつ来てもいい所だと思っている。
試合は始まったばかりなのか、ビジターチームが目下攻撃の真っ最中だ。早速全塁が埋まっている所を見ると、初回から猛攻の兆しを感じさせる。
「ワンサイドゲームだとちょっと厳しいですね」
「うん、さてどうなるかな」
二人ともなるべく観客の邪魔にならない様に、席番を確認しながら歩く。どうやら前から8列目の通路側並びの席が本日の特等席のようだ。
指令長を奥の席に促して、自分はフットワークの軽い通路側に座る。持参した大きめのビニール袋を広げて荷物を入れると、濡れないように口を縛った。
ふと隣を見ると、指令長も同じことをしているのがなんだか可笑しい。そんな様子だけでこの人も相当観戦慣れしているのが分かってしまった。
ここはいわゆる年間指定席の位置というだけあって、マウンドが思った以上に真っ直ぐよく見える。
一体どんな手を使ってチケットを手に入れたのか、余計な詮索は御法度だがやはり気になってしまう。
いつか宴席で聞けたらいい、その程度の興味を胸に仕舞い込むと目の前の試合に集中した。
「はい本庄、ビール」
いつの間にか売り子を捕まえた指令長が眼前にビールを差し出してくる。勘定の有無を尋ねる前に乾杯をさせられ、勢いのまま一口あおる。
人の奢りで言うのもおこがましいが、ナイターで飲むビールは格別だ。これ程までにこの世で美味いものは無い。
「今夜は私が誘ったから、好きに頼んでいいよ」
素直に「ご馳走になります」と頭を下げながら指令長のカップを窺えば、既に半分以上が消えていた。
この細い体の一体どこに大量のアルコールが入るのか、入所以来いまだ謎である。
初回は結局ビジターチームが一挙5点を入れ、裏の攻撃に入った。本庄が懸念した通り、試合はワンサイドゲームの運びを予感させる流れになりつつあった。
だが勝負は思わぬ方向に転がる。
6回を終了した時点で9対8、ビジター側に1点ビハインドを許してはいるもののホームチームは驚異の追い上げを見せていた。
「なんかめちゃくちゃですね」
「ホームランもう5本も出てるからな」
きっとまた打つよ、と笑いながら指令長は本日4杯目のビールに口をつける。自分はまだ2杯目だというのに、本当にザルみたいな人だ。
あまり紅くならないのが特徴で、酔っているのかどうかさえ判らない。そういえば酔い潰れた姿など一度足りとも見た覚えがなかった。
ふと、入所当時に飲みの席でこちらが介抱された事を思い出して軽い自己嫌悪に陥る。彼の様にスマートな大人になれたらどれだけ楽に生きていけるだろう。
いや、せっかく球場に来ているのだからこういう後ろ向きなのはよそう。彼に先程中座して買ってきたばかりの球場名物のから揚げを努めて明るく勧めた。
そうこうしている内に、7回前のグラウンド整備中に流れるビジターの応援歌が大音量で響き渡った。
ついいつも安価な外野席で観戦している時のように、無意識に口ずさんでしまう。
「本当に野球好きなんだ、本庄」
興味深げにこちらを見ている上司の視線にやっと気づき、しまったと口元に手を当てるも時すでに遅し。
アルコールが入るとどうも気が緩んでしまう事だけは気をつけていたのに、やってしまった。恥ずかしくて仕方がない。
「結構いい歌だよね、東京音頭もいいけれど」
二つ目のから揚げをつまみながら、指令長は三塁側スタンドのビジター席を遠く眺める。視線の先の盛り上がりが最高潮に達している今、
自分は本日一番の恥ずかしさを記録している。言うなれば猛打賞クラスの恥だ。
もうこの際なので、恥ずかしいついでに懸念していたあの件について訊いてみることにした。
「あの、一つ伺ってもよろしいでしょうか」
「うん? 何だい」
場内の騒がしさで声が聴き取り辛いのか、指令長は脚を組み替えこちらに体を寄せてくれた。
「指令長はどうして僕の野球好きをご存知なのでしょうか」
「ああ、それね。君の元上司から受けた推薦状にあったのを思い出してね」
高校野球経験者だよな、と指令長は付け加える。
やられた。在来線区から転属辞令が出る直前、昔の上司がそんな類の事を書いたと言っていた様な気がする。
きっといつもの軽い冗談だろうと思って気にも留めなかったが、まさか本当に書いていたとは。というか何故書く必要があるのか。
所属駅上役の人の良さそうな笑顔を思い出し、悲嘆の声が漏れた。
「何かまずかったかい?」
「まずいというか、何と言ったら……」
実際、ここからが面倒なのだ。
自分が野球を好きでは無い理由を一から説明しなければならない。
それが嫌であらかじめ野球経験者だと悟られないように隠して生きてきたのだが、人生そう上手くは出来ていない。
詮索好きの人間達に同じ事を尋ねられて、だんまりを決め込む訳にはいかず何度も繰り返し説明してきた。
打ち明けた後の反応は一律に決まっている。ある者からは優越感を帯びた同情、またある者からは嘲笑を受けた事もある。
当然そんな反応を真に受けたりはしなかったが、それでも回数を重ねれば精神的には静かに擦り減らされていた。
正直うんざりしているルーチン、これを尊敬している上司にもしなければならないのはかなり苦痛だ。
自分の弱点を知られてしまう嫌悪、そして彼の反応がどうなるのかをあまり見たくなかった。
グラウンドに視線を逸らせば、ホームチームの中継ぎ投手が派手に打ち込まれて継投に失敗していた。
おまけに次の打席は外国人選手が入り、マウンド上で疲弊する彼の息の根を止めにかかっている。
この惨状はまるで今の自分の心境そのものの様だ。
嫌な事から逃げたい早く終わらせたい、きっと投手は逃げの変化球を投げる。低めのスライダーか、アウトコースを突くチェンジアップか。
そんな小細工が通用しない打者だと分かっているのに、恐らく投げるだろう。
「野球を観るのは大好きです、でも自分がプレーするのはちょっと」
「本庄?」
経験者なのに、と続けそうな台詞を遮り感情も無く説明を続けた。
「高校まで投手やってましたが、酷使し過ぎて肩と肘をいっぺんに壊しました。だからもう二度とマウンドに立てないんですよ、僕」
乾いた打撃音の直後、わあ、という一際大きな歓声が上がる。外国人選手が放った弾道は緩やかな放物線を描き、長い滞空時間を保ちながら外野スタンド奥へと消えてゆく。
その間、指令長は瞬きもせず驚愕の表情を張り付かせたまま、自分をじっと見据えていた。
「あの、日常生活や仕事に支障はありませんから。まあ冬場がちょっとキツイくらいですねー」
自分で作ってしまった重苦しい空気を払拭するべく、苦笑いしながら少しおどけてみせる。気持ちは先程打たれて項垂れるマウンド上の中継ぎ投手と同じなのに。
「手術、したのか」
「はい、高校2年の秋にすぐ。リハビリに結構時間かかりましたね」
次にブルペンから出てきたベテラン中継ぎ交替投手を指し、丁度症例は彼が昔やったやつと一緒なんですと説明する。
投手を見た瞬間、指令長は眉を顰めて彼の名を呼ぶと二の句が告げられない素振りを見せた。そうだ、こんな苦々しい展開が嫌だから言いたくなかったのだ。
「なんかすいません、つまんない事言っちゃって」
「つまらない事なんて言うな、本庄。お前が一番苦しくて辛かったのに……そんな、お前が謝る必要なんて無いんだよ」
いつもは穏やかな人なのに、珍しく感情の篭った強い語気で制してきた。その反面、泣きそうな表情をしているのはどうしてだろう。
なにより、この人に「お前」なんて呼ばれたのは初めてかもしれない。自分の目の前に居る人間がなんだか指令長じゃない様な、そんな感じがした。
「いや、その、すまなかった。君のデリケートな事情を訊いてしまって」
指令長は眼鏡のブリッジを抑えて息をつくと、いつもの毅然とした上司たる顔に戻った。そしてすかさず売り子を捕まえ、本日5杯目のビールをオーダーした。
「君は?」
「いただきます」
2杯目の残りを素早く飲み干し、遠慮もせず応えた。
指令長が思ったよりも切り替えが早くて助かった。しかし先程の彼は一体何だったのだろう、見た事も無い反応だったので正直驚いてしまった。
3杯目のビールを受け取りながら、ひょっとしてあれがこの人の素顔なのだろうか、そんな答えの無い事を思い巡らせていた。
怪我を経験したマウンド上の投手は老獪な投球術でこの回をあっさりと抑え、ゲームは裏の攻撃へと移行していった。
今度はホーム側の応援歌がスタンド中に響き渡り、応援用に造られた傘の花達があちこちのスタンド席で彩りを添えていた。
その日大宮に戻ったのは、日付が変わる頃だった。
試合は結局9回裏土壇場でホームチームが追いつき、熾烈な延長戦が繰り広げられる。
そして両チーム一進一退の攻防が続き、プロ野球規定の12回裏を終えて13対13の引き分けと相成った。
その時点で既に10時半をとうに回っていたのである。
「いやーつい最後まで観ちゃいましたね」
「本庄は明日早いんじゃなかったか?」
「若さで乗り切ります!」
言うねえ指令長代理、とからかわれ繁華街の分かれ道まで歩いた。
「今日はありがとうございました、ご一緒出来て楽しかったです」
「機会があればまた行こう」
「是非、喜んで」
確約の無い曖昧な約束だったが、それでもこの人との約束事がとても嬉しかった。
すらりと背の高い後ろ姿が見えなくなるまで見送ると、本庄はいつもの寮への帰り道を歩き始めた。
普段より足取りが軽いのは、久々に楽しいひと時を過ごせたからかも知れない。
しかし今日一番の謎は、自分の話に対する指令長の反応だろう。
「何だったんだろうな、あれ」
勝手な想像だが、ひょっとしたら指令長も野球経験者なのかもしれない。それなら理解が早かったり、あんな悲しい顔をした事にも合点が行く。
本人に確かめてみたい所だが、これからもうあの話を二度とする事は無いだろう。下手にしたくない話をして、職場の人間との丁度良い関係を壊すのは御免だ。
「また一緒に行けたらいいな、野球」
誰も居ない夜道で初夏の夜空を見上げながら、何気なく呟いた。
それから以降2ヶ月の間、度重なる巨大怪物体の襲来により戦闘が激化し、指令所は正に戦場と化した。
おびただしい数の戦闘データの処理に追われ、尚且つ戦術会議にも参加していた本庄に当然プライベートな時間はほぼ皆無であった。
ただ寮に帰り必要な家事をこなして寝て起きるだけの生活。そういえば休みの日も緊急招集に備え、アルコール類は一切口にしていなかったことを思い出した。
「うあービールがーアホ程のみたいよー」
ようやく他支部との連携が取れ、国会で承認された特別予算案から捻出した新兵器も投入され、事態が緩和され始めた7月の終わり頃。
久し振りに定時に上がった本庄は、ロッカールームへの道をよろめきながら歩んでいた。
「そういや野球もロクに見てない」
よりにもよってペナントレースがぐっと盛り上がりを見せ始める5月末以降、丸々2ヶ月も試合を観る事が叶わなかったとは。
贔屓のチームが今一体何位に居るのかも分からないこの現状、野球観戦好きには正に生き地獄であった。
「もーツバメは何位なんだよー」
「2位だぞ、本庄」
突然背後から話しかけられ、本庄は驚きの余り軽い悲鳴を上げて咄嗟に振り返った。そこには帰り支度を終えた指令長が、さも面白そうにこちらを見ている。
相変わらず神出鬼没でおまけに人が悪い。
「脅かさないで下さいよ指令長」
「君の一人芝居が面白くて、つい」
指令長はごめんと謝りながら口元を押さえてまだ笑い続けている、そんな緊張感に欠ける姿を見たのは2ヶ月振りだ。
オペレーションルームで見せる研ぎ澄まされた刃の様に鋭い指令長は、今ここに居ない。
「今日はもう上がりかい」
「はい、資料も纏めてそちらにお送りしています」
「そうか、ありがとう。それじゃあ、これからちょっと付き合わないか?」
「はあ」
「ビール、アホ程飲ませてやるぞ」
どうやら自分の醜態を一通り見られていたらしい。一体どこから見ていたのか知らないがもう怒る気にもなれない。今はタダ酒を飲ませてくれる欲望に従った。
「野球はついてますか?」
「居酒屋だからあまり期待してくれるな本庄」
エレベーターホール辺りで待っているから。指令長はそう言い残すと、自分の左肩辺りを軽く叩き足早に去っていった。
「やっぱりそつが無いよな、指令長って」
ああいう大人になりたい、今夜はその辺の極意を伝授して貰えたら御の字だ。待たせてはいけないと、本庄はロッカールームへと続く道を走り出した。
大宮駅付近の居酒屋は午後6時過ぎにも関わらず盛況で、既に席はかなり埋まっていた。二人は店内中程の二人掛テーブル席に通され、早々と卓上を酒と料理で埋め尽くしていた。
高い位置に据えられた37インチ壁掛けテレビには、BGM代わりか始まったばかりの東京ドーム戦が流されている。
画面上部分の見出しテロップには伝統の一戦という文字が踊り、黒地に黄色文字のユニフォーム姿の選手が打席前にクローズアップされていた。
「ドーム戦もいいな」
枝豆をほぼ一人で食べ尽くして次は鳥つくね串に手を伸ばす指令長は、次の観戦予定を定めたようだ。
「暑く無いのが救いですよね」
夏場のナイター観戦環境が厳しいのを本庄はよく知っていた。その点で言うと、全天候型ドームは快適そのものだ。
ビールの美味しさ具合は屋外に劣るかもしれないが、暑過ぎて熱中症に罹ってしまうよりは遥かに良い。
「じゃあ、今度のチケットはドームにしよう」
「え、取れるんですか?」
驚きの声を上げつつ、箸でつまんだ揚げ出し豆腐を食べる。昆布出汁が効いてなかなか旨いもので、ついうっかり完食してしまいそうな一品だ。
「まあね」
相変わらず事も無げな物言いをする人だ。今日こそ彼のコネクションをつきとめようと思っていたが、次の誘いを考慮すれば止めておいた方が得策である。
本庄は念願の生ビールを早々と飲み干すと、手元にある呼び出しボタンを押した。
「次、何にします?」
「うーん、ハイボールにして」
やって来た若い店員に手早く二人分の注文を済ませると、皿を空けるべく目の前の魚料理に箸をつけていく。こういう場所でないと滅多に食べない南蛮漬けは結構美味いものだ。
「本庄はさ」
「はい」
「右投げ?」
物凄くストレートに且つ大胆に触れてはならない筈の話題に突っ込まれ、思わずむせ返る。なんて事を聞くのだこの人は。
大丈夫かと水を渡された時、次の一杯が運ばれてきた。気を利かせた店員が心配そうに新しいおしぼりを持ってきてくれたのがありがたい。
「あのですね、僕の話聞いといてそういう事尋ねます?
普通もうちょっと空気読んで聞かないでしょ、大体もう痛くて投げられないんだし!
結局は自業自得だの中途半端に終わったねって勝手な事言いたいだけなんでしょう」
思わず上司だという事を忘れて一気にまくし立てるが、指令長は顔色一つ変えなかった。噛み付く本庄には御構い無しに、極めて冷静に続ける。
「結構溜め込んでるなー本庄」
「この話すると大抵は皆んなこんな反応するんですよ」
ほう、と指令長は顎に手を添える。
「いや、私としては単純にここふた月くらい気になっててね。利き手は右だが、もしかすると君はサウスポーかもって」
「え……」
右腕か左腕か、ただそれだけのどうでもいい事を考えていたのか。というかあのクソ忙しくて毎日死にそうになっていた時期にそんな事を考えていたのか、この指令長は。
悪びれもせず頬杖をついてこちらに微笑む姿がますます憎らしい。
「で、どっちなの?」
怒りを抑え、それでも最低限の抵抗をしたかった。本庄は憮然とした顔のまま、そっぽを向いて答える。
「右投げ右打ち、ですよ。高校通算成績は2割7分7厘のホームラン15本、43打点。投手成績は……聞かないで下さい」
おお、と感嘆の声が上がる。そう見栄えの良い成績でも無いのに、そこまで驚かれるとちょっと照れてしまうじゃないか。
「結構打ってるな、9番じゃないだろう」
「8番です。本当は打つ方が好きなんですよ僕。実際怪我の後もちょっとだけ代打で使って貰ってまして」
「打てる投手って、攻撃的打線だな」
「それでも西東京大会じゃ格上に歯が立ちませんでしたけれどね」
ここまで喋っておいて今更だが、うっかり彼のペースになっている事に気づく。流されやすい自分の性格が災いしたか、つい要らない事まで喋ってしまった。
もうこうなったら今日はとことん呑んでやる、そんな拗ねた態度を丸出しにしてジョッキを傾けた。
「で、まだ聞きたい事あります?」
三分の一になった中ジョッキを下ろして、ビール代分くらいはお答えしますよ、と念を押す。
そんなこちらの言葉を待っていたかの様に、指令長はニヤリと口角を上げて満足気に笑った。
「持ち球は、変化球?」
「カーブ、スライダー、フォーク、チェンジアップ、たまにパーム。大体いけました」
「高校生でそれって凄いじゃないか」
「コーチが技巧派で。でもやってる事は、変化球ばっかりの誤魔化しですよ」
そうかね、と指令長はハイボールを口にして首を傾げる。
「君と組んでいたキャッチャーはよく捕球出来たな。変化球って捕るの難しいだろ」
「逆です、指令長」
目の前にある出汁巻きに添えられた大根おろしへ醤油をかけながら、鋭く指摘する。
「僕がサインに全く首を振らない投手だったから、同級生の捕手に配球全部決めて貰ってました。
だから彼が構えた捕りやすい場所にしか投げなかっただけの話ですよ」
「それって正確なコントロールがないと無理だろう? 」
「あ、コントロールだけは良いんですよ僕」
指令長はまるで信じられないものを見る様な顔でハイボールを傾ける。その間、彼が手をつけない出汁巻きを次々と平らげていく。
「待て本庄、フォークを捕球する時は落ちる軌道によってミット返して捕る事もあるじゃないか。下手をするとワイルドピッチになりかねん」
「だからならない様に投げるんですよ、打者手前でギリギリ落ちる角度を考えて放る腕の位置をなんとなく覚えておけば捕手も覚えるし。
これはミット返すボールが来るよって分かるし」
「……とんでもないな、次元が違う」
「一度某スカウトさんからそれについてだけは褒められたんです。あ、一応これ自慢ですよ」
「恐れ入ったよ、君は凄いなまったく」
指令長から手放しで褒められるなんて、きっと生きている内にはもう絶対無いだろう。嬉しさを噛み締めつつも、彼が何気なく訊いてきたコメントの内容が引っかかった。
恐らく、二ヶ月前に気づいた可能性の件と同じだと思う。この確信は合っている筈だ。
「指令長、ちょっとすいません。左手見せて下さいよ」
意外な提案に眉根を寄せ、指令長は渋々左手を差し出してくれた
。一見して指が長く形の良い白い手だ、しかし手の皮の厚みに加え親指の関節をよく触れば突き指経験者独特の感触がある。
「キャッチャーやってましたね」
「ご明察だ、本庄」
離した左手をひらひらさせながら、指令長は苦笑いで応えてくれた。
「どうして分かった?」
「フォークボール捕る時の目線です」
「成る程、流石だな」
洞察力が鋭いと褒められた。ああこれが仕事に活かせたら、今頃幾らか昇給もあっただろうにと密かに思う。
「私の場合は高校受験前まで野球やっていたから、ものの9年間という所かな」
「捕手一筋ですか?」
「うん、キツかったけどやっぱり辞めたくなかったな。
こんな事を言って慰めになるかは分からないけど、私の辞める時の辛さなんて君の苦悩の百分の一も無いものさ」
指令長の言葉があの球場で見せた「泣きそうな顔」にやっと直結して、胸の奥が痛くなった。
何年も経った今、同じ野球をしていた者の目線で理解してくれる人がこんな近くに居たなんて。人生分からないものだ。
「で、本庄は今どの程度投げられる?」
「軽いキャッチボール程度までならいけますよ。もし試合に出る機会あったら、外野手じゃないと無理ですね」
「そうか。よし、じゃあやろう」
残ったハイボールを一気に流し込むと、指令長は伝票と自分の荷物を掴んで立ち上がった。この感じと行動パターンは、物凄く嫌な予感がする。
「あの指令長、やろうって何を」
「決まってるだろう。キャッチボール、今から」
しまった、完全に油断していた。
最近所内にてあまり見られなかった「指令長の思い付き適当行動」がまさかここにきて発動するとは思いも寄らなかった。
そして今回の被害者が自分一人だけとは運が無さすぎる、いい加減氷川神社でお祓いをして貰った方が良いのだろうかと本気で考えた。
レジで会計を済ませる指令長を追いかけるべく、まことに不本意であったが鞄と上着を取り覚悟を決めて席を立った。
午後7時に居酒屋を出て向かった先は、なんと研究所内にある操車場だった。
吹き抜けの天井も高いが、四方の幅も広い。隅の資材置き場だけでも十分なスペースが取られ、さながら屋内練習場を彷彿とさせる。
煌々と明かりの灯った場内に指令長の声が響く。
「ここの主には許可取ってあるから、好きに投げられるぞ」
用意周到に準備された投手用のグラブを、こちらが抗議をする間も無く押し付けられた。
退路を断たれた兵の様な顔で仕方なくグラブを手にはめてみると、割と新品に近い感触がした。どうもこれは見た目の古さよりもあまり使われていないような気がする。
「まずどうやってキントキさんを買収したんですか?」
酒だ、と簡潔な一言が返ってくる。実に効率の良い大人のやり方だ。
「あと、このグラブなんですけど」
「8年位前かな、業界団体で野球大会があってね。それにウチも参加したんだよ、その時のグラブが総務に聞いたらまだ残っててね」
成る程、それでこれが使いこなされていない理由が分かった。そして指令長が感触を確かめているのはキャッチャーミットだ。
自分の借りたグラブよりも使い込んだ感じがあるのは、大会で結構な球数を受けたからだろう。
「ちなみに、大会はどうだったんです?」
「1対35」
突如、指令長のイントネーションは氷の様に寒々とした音に変わる。まずい、これは触れてはいけない話題だったらしい。
「5回コールドで35点入れられるって凄いだろう、なあ本庄」
未だにこの記録は破られていないそうだと語る口調は、どこか怨念が籠っている。
「捕手は指令長ですよね。投手は」
「速杉さんだ」
死んだような目になっている事に本人は気付いているのだろうか。当時の地獄の如き惨状を想像し、とにかく話題を切り替えるべくボールの種類を尋ねた。
「硬球はNGが出た。済まないが軟式のでいいか?」
「練習の時に使ってました、うわー懐かしい」
ボールを受け取り手の中で弾力を確認すると、予想していたよりも硬くて指の掛りが良かった。これなら肩を気にせず投げられそうだ。
早速ネクタイを緩めて足元のさばきを確認する。革靴なので滑らないかどうかちょっと心配だが、ただのキャッチボール程度なら大丈夫だろう。
そして少しずつ距離を取りながら互いに投げ合いを始める。
こんなゴールデンタイムにキャッチボールをしているいい年をしたサラリーマンは、恐らく全国でも自分達だけだろう。
アルコールを少し入れてきた所為か、妙にテンションが高い。
二人の間がおよそ18.44mの距離になってから足を止めると、指令長も同じタイミングで歩みを止めた。やっぱり経験者だなあ、と自然に笑いが込み上げてくる。
「本庄、カーブ投げてみて」
「ええー」
急なリクエストに戸惑いつつ、中指と人差し指を揃えた握りを確認してリリースする。かなり緩い速度だが縦回転がついてちゃんと曲がりがついた。
「おお、カーブだ」
「当たり前じゃないですか」
戻された白球を再びカーブで投げ返す。きっちり指令長のミットに収まるあたり、まだコントロールは健在らしい。
「じゃあ次はスライダー」
「えええー!」
彼に言われるがままに変化球を投げ続ける。流石に球速は無いが、これはこれで結構楽しくなってきた。
「お前がいたら35点も入れられなかったぞ!」
「その話やめましょうよー」
顔がめっちゃ怖いです指令長、とチェンジアップを投げ返す。中学生で辞めたとは言え、指令長のキャッチング技術は上手い。
こういう人とバッテリーを組んだらどうなるのか、速球型か技巧型か。実現不可能な事なのについ想像をしてしまう。
20球を超えた所で指令長が一旦間を置き、その場にしゃがんだ。
「本庄、ちょっとストレート投げてみてよ。出来る範囲で」
指令長はボールを投げ返した後、ミットをこちらに構えた。腕を振って思い切り投げてこいという要求である。正気だろうか。
「あの、軟式球だから結構体感が速いボールになりますよ?」
「問題無く捕れると思うよ」
余裕の態度だ、こちらの言う事など聞きもしない。
「もし怪我でもしたら明日からどうするんですか」
「コントロール良いんだろう? 本庄」
もしぶつけられたら労災だな、と指令長はしれっと冗談を言う。この人はどうしても自分に全力で投げさせたいらしい。
しばらくボールを手の内で弄びながら沈黙を貫く。
いつだって思っていた、速球を投げられるものなら投げたい、またマウンドに立ちたいと。でも出来ない、痛みへの恐怖と術後の投球への不安感、そしてそれらに対する誹謗。
思い起こすだけで息苦しくて辛くて、動くことすら出来ない。
「もう投げられませんって」
「嘘つけ、本当は向こうっ気が強い癖に。お前はそんな事言う様な安い質じゃないだろ」
自分の奥底にある本質を見抜いた彼の言葉に、ずっと動けずにいた場所から無理矢理引き摺り出された様な気がした。
やっぱりこの人は普段から人間というものをよく見ている。彼の前では一切誤魔化しが効かない、出水シンペイとはそういう男なのだ。
「そうですね。
怪我をして野球辞めて言われない批判を受けて、聞こえないように耳を塞ぎ目を閉じ、なるべく人前では穏やかにやり過ごし生きてきました。
でもそういうの、もううんざりなんですよ!」
挑発を真に受けるとか子供じみている、でも今はそんな事どうでもいい。腕がどうなろうと知った事か、全力で投げたい、そして全力で受け止めて欲しい。それだけしかない。
深呼吸して彼が構えたコースを確認する。
少し足を開いて見えない後方プレートの左側に軸足を置いたつもりで、クロスファイアの軌道をより意識する。
流れる様な動作で伸びやかにワインドアップ。
いつもより高く上げる左脚からの体重移動で軸足はプレートを蹴る。
振り切る腕の角度はいつものサイドスロー、より前に前にリリースポイントを定めて球を放つ。
その瞬間、速球を受け止める乾いた音が場内に鳴り響いた。見ればボールはちゃんと要求された場所のミットに収まっている。
が、指令長は片膝をついて苦悶の表情を浮かべながら痛みを堪えているようだった。
「す、すいません! 大丈夫ですか指令長」
慌てて駆け寄りミットを外した左手を見ると、赤く腫れ上がっている。
急いで隅の方に置いた自分の鞄からまだ冷えているミネラルウォーターとタオルを取り出し応急処置アイシングしようとした時、いきなり頭を軽く叩かれた。
「素人相手にいきなり140キロ投げる奴がいるか、この大バカ」
思ったよりも元気である、元捕手だけあって案外頑丈なのかも知れない。
「いやーブランクがありますから、せいぜい今ので110キロくらいですよ。ちなみに僕の最速は145キロでして」
「そういう事を言ってるんじゃないよ俺は!」
もう一度理不尽に頭を叩かれた。
「で、怪我した所は?」
「……あんまり痛くないです、あれ?」
渾身のツーシームを投げたにも関わらず、肘や肩にいつもの嫌な痛みや違和感を感じない。
ウォーミングアップ代わりのキャッチボールが良かったのか、はたまたアルコールのせいか。とにかく不思議な事もあるものである。
「なあ本庄、自己を抑えて社会に迎合するのは悪いことじゃない。上手な生き方の一つだと俺も思う。
でもそればかりだと行き詰まって、そのうち大事にしてきたものを見失いそうになる。
たまにでいい、大事なそれを守る為に自分を精一杯出す勇気があってもいいんじゃないかな。どうだろう」
そんな言葉を紡ぐ指令長は、いつもと違った優しい目をしている。
一度挫折を味わい、苦しみを引きずりひた隠しにして生きてきた人生に向き合うきっかけを作ってくれるような、仄かにあたたかい言葉だった。
「今まで出来なかったのに……うまく出来ますかね」
「まだ若いから大丈夫じゃない? まあ、困ったら頼ってこい」
これでも身近な大人なんだから、と指令長は笑いながら頭を撫でてくれた。まるで子供をあやすような仕草だが、悪い気がしないのはどうしてだろう。
「しかし見惚れるくらい綺麗な投球フォームだったな。そりゃ惜しがったり嫉妬する奴も出てくるよ」
「えっと、恐れ入ります」
「千葉にいるスリークォーター本格派がお手本?」
「あ、よくご存知で」
尊敬している投手の名前を出して、怪我しなかったら本当は彼の様になりたかったですと白状した。
「俺はもうちょっと遅く生まれて、お前とバッテリー組んでみたかったよ」
投手にとって愛の告白に等しい殺し文句を告げられ、自分ではどうしようもない位に赤面した。
この人は全くもってとんでもない人たらしだ。だからこそ、その魅力的な人柄に付いて行こうと思うし、いつか追い付きたい大きな存在として憧れる。
「どうする、もうちょっと投げていく?」
「はい」
立ち上がってミットを再び装着した指令長から手を差し伸べられ、確かな返事と共にその手を迷わず握り返した。
「たまにはさっきみたいなツーシーム投げてもいいですよね」
「どうせだったら、一塁走者がいる想定でクイックを投げてみろ」
「うええー?」
またややこしい事を言う、この人は。
「俺の盗塁阻止率を甘く見るなよ本庄、速攻で投げ返してやるから」
よく見ておけよと不敵に笑う。 そんな軽口も交え、再び互いの距離を取りながらキャッチボールを始めた。
結構離れているようで思いの外通じ合っている投手と捕手の距離は18.44m。
9年振りのそれは土の匂いなんてしないけれど、もっと新しい景色を見せてくれる。そんな特別なものに自分の中で変わっていった。
「それじゃあ、カーブいきます」
午後9時前、広い操車場内に晴れやかな声が響き渡った。
お帰りはブラウザのバックで。