時刻は午後十時を回り、本庄はホテルの部屋を目前にして上司と共に途方に暮れていた。

話は三十分程前に遡る。

試合はホームチームの快勝で、見事日本シリーズへの栄光の道へと突き進んだ。

その様子に双子や周りのファンが喜びを爆発させていたのが印象的だ。

帰宅する客足で混雑する中、興奮冷めやらぬ二人を連れて上司と共に駅直結の宿泊先へと向かう。

球場から脱出するだけで結構時間がかかったのには驚きである。

ようやく辿り着いたホテルでは上司はチェックインの手配を、自分はクロークで荷物を受け取る作業をスムーズに行った。

ここも野球観戦客が多いのか、ロビーは遅い時間にも関わらず昼間の様な賑わいを見せている。

上司からカードキーが入ったホルダーを受け取り、エレベーターのセキュリティシステムに翳して宿泊階へと向かう。

18階ともなると結構眺めが良いだろう、そんなことをぼんやり考え油断していたのがいけなかったのだろう。

該当階に着いて部屋を探そうとしたその時、双子から自分の手元にあったホルダーを素早く掠め取られてしまった。

自分達だけで泊まるから大丈夫、と止める間も無く一目散に二人は該当の部屋へと飛び込み就寝の挨拶と共にオートロックの扉は閉じられた。

その間、約三十秒程の電光石火の犯行である。

慌ててキーを取り返そうとするも、困った顔をする上司に「夜ももう遅いから」とやんわりと止められた。

そして現在に至る。

「ま、仕方ないか。とりあえず入ろう」

促されてカードキーを操作し、中に入って照明を点け衝撃の事実を目の当たりにした。

「セミダブルっすね……」

本当にすまない、と額を抑え困惑しながら指令長は謝り続ける。何故子供を一人ずつ預かろうという提案をしてきたのか、本当の意味がやっと理解できた。

これだと成人男性二人では余りにも手狭すぎる仕様だ。

というか、自分は今夜この人と同衾するのか。以前、ベッドでどうのこうのと言われた冗談を思い出して妙に意識してしまう。

ただからかわれただけだと分かっていても、あの一言が頭からどうにも離れない。

「ツインが満室でね、この手を使ったが裏目に出たか。申し訳ない」

指令長のこの口振りだと恐らく何もなさそうだ。心の中だけで一息ついて部屋の中へと進んだ。

「荷物降ろしましょうか」

折り畳みの荷物置きを指令長に譲り、自分は窓際にある椅子を使った。

高層階ともなると外の景色はどうなのか気になって、薄いカーテンを引いてみる。

「わ、凄いですよちょっと」

余りのことに、ドア付近のクローゼットにコートを掛けている指令長を窓際まで呼び寄せる。

「これは。なかなかのものだな」

眼下に広がる夜景は遥か遠く瀬戸内まで輝きを見せ、色とりどりの光が華やぎこの街の夜を彩る。

先程まで観戦していた球場も未だ煌々としたナイター照明に包まれており、この景観に象徴的な美しさを添える。

ホテルの真下に見えるオレンジの光に映える新幹線高架橋までもがモニュメントの様にも見え、この窓からの眺めだけで一枚の芸術作品の様だと感動した。

「綺麗ですね、ここに来た甲斐がありました」

「確かにそうだな」

恋人同士だといい雰囲気になるんだろうな、そう笑いながら言う指令長にどう返したらいいものか一瞬戸惑う。

ここで間違えるとどえらい事になりそうな気がして、あらゆる選択肢から無難なものを素早く選定する。

「今度友人に勧めておきます」

こちらも笑いながら返すも、その後が続かず暫し微妙な沈黙が広がった。

どうしてキャッチボール時の様に軽快なやり取りが出来ないのか、もどかしい空気が自分達の周りをじわりと包み込んでくる。

先に沈黙を破ったのは指令長だった。

「えーと、本庄。お前から風呂使ってくれ、俺は報告書まとめるから」

「いやしかし上司の前に頂くのは」

「そういうの今日はいいから。書類纏めるのに時間かかるからね」

一方的に押し切られる型で先に風呂を使わせて貰った。

少し熱めの湯を張り、顎の辺りまでゆっくり浸かれば今日の疲労が溶け出してくるようだ。

見た目よりも広めの浴槽は178㎝の自分にも充分な大きさで、うっかりそのまま寝落ちしそうな位には快適なものだった。

「入浴剤買っとけばよかったなー」

そんな独り言を呟いた後で、今日は一人部屋では無かったことを思い出す。まあ聞かれてもそうまずいものではないので、どうでもいい。

とにかく、宿舎の風呂でもよく寝る癖があるのでここでの寝落ちは禁物だ。指令長もきっとお疲れの筈なので、早々にバスルームを明け渡さなければならない。

一息ついた所でシャワーコックを捻り、自分の中から睡魔を追い払うべく頭から熱い湯を浴びた。





「お先です、ありがとうございました」

「はいお疲れさん」

頭まで乾かしてベッドルームに戻ると、指令長はデスク一杯に資料を広げノートパソコンから視線を移さずひたすら今日の書類を作成している。

まるでここだけ指令長室を持って来たような感じだ。

「冷蔵庫に水とかビール入れておいたから、好きに飲んで」

いつの間に買ってきたのか、相変わらず気の回し方が凄い。ここで遠慮すると悪いので、早速右端の下にある冷蔵庫に所狭しと詰められたビールを一本頂戴した。

今日は全くアルコールを口にしなかったので、この一杯が大変ありがたい。}

「本庄、俺にも頂戴」

ようやく仕事が一段落したのか、指令長は伸びをしながら催促してくる。

あまり無理しないで下さいとビールを差し出すと、指令長は受け取りながら自分の出で立ちを上から下まで検分する。

「お前も旅慣れてるな」

「ああ、これですか。ホテルの備え付けって苦手なんですよね」

Tシャツにハーフパンツという、思い切り家着スタイルで過ごす自分を指令長は特に否定しなかった。

「俺も面倒だから持参派だ」

プルトップを上げ、水でも飲むように指令長は一気にビールを流し込む。この人もアルコールに飢えていたのか、と納得するような飲みっぷりだ。

「指令長は何持ってきてます?」

「浴衣」

ああと頷く自分に、なんだ驚かないのかと指令長はもう一口ビールをあおる。

「商社勤めの友人も浴衣持って行くって言ってました。畳めばかさばらないし、結構楽だって」

「確かに慣れたら便利だからな、これは」

参考までに頭に止めておこう。

「さて、俺もそろそろ入るわ。悪いが報告書とそこの資料目を通しておいて。訂正あったら赤字で、コメントもよろしく」

矢継ぎ早に指示を飛ばして残りのビールを飲み干すと、指令長は着替えを手にバスルームへと消えていった。

机には空の缶が残っていた。ビールを三口で飲むとか、ジュースじゃないんだからと笑いが込み上げてくる。流石大酒豪のやることは桁が違う。

「それじゃあ、やりますか」

硬い木の椅子に胡座をかいて、手早く資料を読み進める。

時折PDF化された報告書へ訂正やコメントを挿入し、再び該当資料に目を通す。

やっていることは残業だなと思いつつも2本目のビールを開け、また資料に戻る。

ようやく8枚目の報告書をチェックし終えた時には、時計はもう11時を回っていた。

程なくバスルームの扉が開き、頭からタオルを被った指令長が出てきた。

浴衣姿に違和感が無く、前髪が降りている分家族サービス中のお父さんの温泉湯上り姿にも見えてしまう。

「読んだ?」

「はい、誤字脱字も含めて修正箇所が幾つか。あと質問がなんぼか」

まるで居酒屋の様にいつもの流れで冷えたビールを指令長に渡すと、すぐ様飲み始めた。アルコールが瞬く間に消費される様子は見ている分には本当に面白い。

自分の傍らで立ったまま画面をスクロールしながら修正箇所とコメントを確認し、ざっと見終えた指令長はビールを置いて顎に手を添える。

「新機体のロールアウトの件が軸ね、はいはい」

指令長に席を譲り、自分はすぐ近くにあるベッドの端に腰掛けた。お互いにビールだけは離さないが、

話している内容はかなり重要な事案なので極めて大真面目に話しているつもりだ。時折資料を引き寄せてその隙間に数式を書き連ね疑問点を提示すれば

、指令長も違う切り口で回答してくる。そんなやりとりを何度も繰り返し、報告書は修正を重ねられる。

案件の落とし所として、運転士の擬似AIで一度システムを走らせた方が変型時の演算負担を減らせるんじゃないか、という所まで詰めて今宵は手打ちとした。

「一人で考えるより意見が纏まり易い、助かった。疲れているのにすまないな、ありがとう本庄」

「こんなので良かったら、どうぞ使って下さい」

2本目のビールを飲み切り、断りを入れてテレビを点けた。今の時間帯ならば丁度スポーツニュースをやっている筈だ。

案の定プロ野球の結果が始まり、ほんの二時間前まで居た球場の試合結果がまず流れてきた。

「強かったっすよね」

「打線が繋がってたからな、あれは怖い」

監督の勝利インタビューで場面は締め括られ、次はパリーグの結果が始まる。

なかなか忙しくてネットで結果を確認する暇も無かったので、ここで見るのが今日初めてだ。

どうやら指令長も同じらしく、二人して固唾を呑んで結果を見守る。

そして画面には恐るべき結果が表示された。

『15対4でリーグ首位の西武がソフトバンクに敗れました、これで痛恨の二敗目です』

女性アナウンサーの透き通った声で画面通りの数字が読み上げられる。信じられない敗戦に、二人して思わずテレビ画面に釘付けとなった。

試合はシーズン中脅威だった強力打線が沈黙し、先発投手も大炎上するという展開だ。

比較的パリーグを見ている自分にも、この内容は全く予想だにしていなかった。

西武ファンの指令長はというと、テレビの試合結果がまだ続いているにも関わらずデスクに顔を伏せて今シーズン一番の嘆き声を上げている。

「本庄……俺はもう生きるのが辛い」

その気持ちは痛い程よく分かる。しかし大宮支部が壊滅しかねないので、何が何でも生き延びて貰わないと非常に困る。

「指令長、まだ試合は残ってます! フルセットまで持ち込んできっと勝てます、希望を捨てないで」

「んもーー11点差とかさー駄目じゃん。ちゃんと投げてくれよ、

なんだよ投手コーチ頼むよ。あといきなり打てなくなるしさーもーなんだよーなんとかしてよー」

あり得ない位に出水シンペイの素を丸出しにして悶絶しながらベッドに倒れ込む姿は、つい五日前の自分をそっくりそのまま見ている様だ。

確か屈辱的ノーヒットノーランを喰らい燕がセリーグのクライマックスシリーズ・ファーストステージを敗退した直後がこんな感じだった。

いやもうちょっと荒れていたかもしれない。

さりとてこのまま就寝されて風邪でもひかれたら大変だ。

「指令長起きて! 髪を乾かさないと駄目です」

「本庄聞いてくれ、九月からの防御率はだな」

「聞きますから起きて!」

呪いの言葉をずっと吐き続ける指令長を無理矢理引き起こして、タオルで頭を拭かせる。

その間すかさず洗面所に置いたドライヤーを取りに行く。その戻るまでの僅かな間に指令長はタオルを被ったまま、ベッドに移動して再び撃沈していた。

一体何をしているのだ、そんなに負けたのがショックだったのだろうか。

このままCS敗退したら、この人はどうなってしまうのか考えるだに怖ろしい。

「はい起きる、失礼しますよ」

なんとか椅子に座らせ、自分は彼の正面に立ってドライヤーをかけ始めた。

「中継ぎがなあー、なーんか計算できんのだよ。4点台とかなあ、どうよ」

「中継ぎの防御率がリーグトップでも優勝出来ないチームがあるんです。それに相手側も成績はドングリですから、きっと明日は大丈夫ですよ」

ひたすら球団愛ある愚痴をこぼし続ける指令長に相槌を打ちながら、乾かす手は止めない。

こうしてみると、まるで昔飼っていた猫の風呂上がりみたいだ。とにかくドライヤーが大嫌いで、毎回何事かウニャウニャと訴えていた辺りが特にそっくりだ。

指通りの良い髪質はサラサラとしており、存外に乾かし易い。

しかし外見からはあまり気づかない白髪の多さに、彼の日頃の苦労を知った。

過剰なストレスがここに出るタイプは、数年もするとすぐ全体に回る。今日再会した本郷さんと同じなのか、と少し胸が痛んだ。

あらかた乾かし終わり一緒に持ってきたコームで髪を梳いて、一連の作業は完了した。

「はい終わりです。西武のスイッチヒッターみたいなサラサラ髪ですね」

あの色男と一緒かい、と満更でも無さげに手櫛で前髪をかき上げながら見上げてくる。

やはり前髪があると年齢より随分若々しく見える。三十代だと鯖を読んでもいけそうな感じだ。

「これなあ朝が面倒なんだよ、整髪料結構使うし」

「いっそ降ろされては?」

女性にかなりモテますよと加えると、渋い顔で「上に舐められるから嫌だ」と却下された。

「しかしすまないな本庄、ずっと世話ばかり焼かせて」

「もしまだ話足りなければどうぞ。あ、すいませんが歯磨きだけさせて下さいね」

そう促して、自分は洗面所へドライヤーを戻しアメニティから歯ブラシを選び出した。

「どこまで話したっけ?」

当たり前の様に尋ねてくる指令長は、本当に話を続けるつもりらしい。歯ブラシをくわえる前に顔を覗かせて告げた。

「相手側の中継ぎを捉えきれてないって所までです」

よくぞ話題が尽きないと思う程に、彼はチームのことを詳細に話し続ける。

成る程、この人が酒の席でこぼしていた「結婚が難しい要因」が分かってしまったような気がした。





寝支度が整い、ようやくベッドに横たわる。

指令長が左側に座りまだ書類に目を通しているので、必然的に自分は右側へ体を潜り込ませた。

セミダブルの狭さを実感しつつ、上司側には背を向けてなるべく彼が広く使えるように配慮する。

元来の寝付きの良さに加え今日の疲労もあってか、重い瞼を閉じた直後眠りの世界へと緩やかにいざなわれた。


そして久しぶりに昔の夢を見た。


八月の早朝とは言えども、かなり気温は上昇しつつある。

八時には二十七度近くなるのだから、早く始めて終わらせてしまいたい。

西東京大会も終わり、九月から始まる秋季大会を目前にした練習試合だからそれなりに気が抜けない。

それに本郷さんが早くから顔を出すと聞いているので、あまり変な投球も出来ない。

ここ一年ずっと痛い右腕と肘は、昨夜から更に痛みを増していた。そろそろ限界か。

とりあえず病院に行かないといけないが、まずは今日が終わってからの話だ。

深谷はきっと付いて行きたがるけれど、出来れば彼には症状を知られたくは無い。さてどうやって誤魔化そうか。

そうこうしている内に試合が始まった。

深谷からの要求は初球インコース高め、打ち合わせ通りの配球に軽くワインドアップの姿勢を取る。

右腕をムチの様にしならせてサイドスローでリリースした時だった。

何かが引き千切れる音と聴いた事も無い破裂音がした。途端、右腕全体に激痛が走る。

痛い、痛すぎて一瞬息が止まる。

そしてその場に膝から崩れ落ちた。

何故、どうしてこんな時に。

右腕がまるで皮だけで繋がってるみたいにダラリと下がる。

指先の感覚が失われ、耐え難い痛みが断裂したであろう肘の腱と砕けた肩関節を襲い、脂汗が止まらない。

これはもう腕じゃない、ただの血と骨と肉が詰まった塊だ

。やがて真っ黒に染まった右腕は、肩から腐り落ちて無残にマウンドを汚す。

「なんだよもう投げられないのか、使えない奴だな」

幾つもの声が重なり、それが一体誰のものか判別もつかない。

腕は赤黒く煮え滾る泡で肉を包み溶かし尽くし、やがて骨だけが残った。

そこで初めて絶叫した。




急に呼吸が出来ずに飛び起き、何度も激しく咳き込んだ。

乾燥した気道がぺったりと密着したみたいで酸素が上手く入らず、窒息状態で声も出せない。

苦しい、誰か。誰か。

異変に気付いた指令長は、すぐ様照明を点けて冷凍庫の水を取り出し、席に掛けたタオルを掴んでベッドに戻る。

酷い咳で上下する自分の背中を撫でながら、落ち着いた声音で自分の名前を呼ぶ。

「大丈夫だ本庄、大きい咳で気道開くから。そうしたら水少し飲めるよ、吐いてもいいから。

そのあと深呼吸しよう、そう大丈夫、ゆっくりでいい」

何度目かの大きな咳でようやく気管が開いた。潤いを求め冷たい水を少量流し込み、気道にやっと酸素が入ってきて窒息状態から解放される。

それでもまだ息苦しくて何度も咳込めば、膝へ敷かれたタオルに涙と涎が溢れ落ちる。

何か喋ろうとしても、声帯がざらついて詰まり上手く言葉が出ない。

「大丈夫だからな本庄、俺がいるから」

荒い息が止まらぬ背中を、指令長はゆっくりと撫でる。何度目かの大きな咳を経て、ようやく平常の呼吸速度が戻ってきた。

横目で確認した時刻は午前一時を過ぎたところだった。

「すいません……起こしてしまって」

「気にするな。もう平気か?」

はい、と返事をすると指令長はほっとした表情で頷く。サイドボードに置いた眼鏡をかけて、傍らに置いた水を今一度自分に渡してくれる。

一口二口と口に含み、気管支に入らない様に気をつけて飲み込む。ただのミネラルウォーターなのに飲むだけで生き返るような気がした。

「ストレスが溜まると、こういう形で出てくるんです。今カウンセラーにも相談しているんですけどね」

置いて貰ったティッシュボックスから数枚取り出して口許を拭い、ついでに鼻をかんだ。

「俺もたまになるから同じ。解るよ」

「指令長が? 意外です」

そんなことは無いさ、そう応える顔が少し寂しそうだ。確かにこの人が抱えているものは大きく、頭髪に見えるようにその負荷は想像に難くない。

一人暗闇の中で必死に耐え続ける姿に、つい自分の姿を重ねてしまった。

だからだろうか、全部話してしまおうと思ったのは。

「……怪我をした日の夢を見ました。今日は色んなことがあって、懐かしい人にも再会したから、ですかね」

指令長は黙って頷く。

「ちょっとだけ話聞いて貰ってもいいですか? 僕がなんで野球辞めたかって話なんですけどね」

暫く間があり、俯いていた指令長はこちらを推し量りながら顔を上げて応えた。

「それ、本当に俺が聞いていいのか?」

「僕は貴方じゃないと嫌です」

そうか、と短く応え指令長は脚を崩して胡座をかいた。

「怪我したのが二年の夏休み終わり頃。側副靱帯の再建手術と右肩のSLAP損傷内視鏡手術を受けたんですよ、これがそれ」

恥ずかしいので右肘の術後痕だけ見せる。普段長袖の制服なので分からないが、肘の内側には大きく切開した痕が残っている。

指令長は痛々しい顔をしながら傷痕に触れてくる。縫合痕を辿る指が少々くすぐったい。

「……こんなに切開したのか」

「靱帯がズタズタに断裂していましたからね。で、移植した靱帯はここから取りました」

今度は左腕を見せる。こちらには大きな切開の痕は見られないが、やはり生々しい傷痕は残されている。

「練習試合の初球を投げた所でダメになって。たまたま見に来ていたスカウトさんの車でコーチに連れられて病院直行です」

「もしかしてその人が今日会った……」

「本郷スカウトです」

成る程、そういう関係だったのかと指令長は腕組みをして頷いた。

「手術は二箇所とも成功しました。けど、そこからが酷かったですね。

僕が一人エースをやっていましたから当然チームは弱体化する。

原因追求の末、僕を酷使し続けた監督が保護者会で吊るし上げに遭って辞任。

次いで監督を慕う部員はごっそり退部して、秋季大会中に野球部壊滅の危機が訪れました」

「それは地獄絵図だな」

指令長の指摘が最も的確だと自分も思った。

「一人残ってくれた投手コーチは人道的な方で、次の監督に就任して必死でチームの再建に取り組んでくれました。

残った二年生は怪我した僕と捕手の二人だけ、残りは一年生たったの十人。もう最悪のリスタートでした」

「小国大名の御家騒動みたいだな」

丁度そんな感じです、と笑う。

「捕手って、あれだろ。今日スタメンの深谷?」

「あ、ジョウ君から聞きました? やっぱりお喋りだなーあの子は」

もの凄い豪華バッテリーだ、と感心されるとこちらもどう反応してよいものか微妙な気持ちになる。

「執刀医からは当初、リハビリしたら必ず投げられるようになると説明を受けました。

だから怪我した時点では野球部を辞めずにマネージャー兼スコアラーをしながらリハビリに取り組んでいたんです」

「それってどの位?」

「十月から始めて、大体九ヶ月かそこらでしたね。今迄で一番辛抱した時期だったと思います」

よく我慢したな、と指令長は後頭部辺りを撫でてくれる。何故だろう、この人に撫でられるのは本当に悪い気がしない。

「野球戦術に関して一番勉強したのもこの時期です。コーチが撮ってくれた他試合を徹底研究して、深谷と攻略ノート作ったり。必ず週一に部員全員で戦略会議開いたり」

「やっぱりお前はそっちの才能があるな。どうだ? 戦術長のポスト、いつでも空けてるよ」

だからお断りしますって、と重ねて念を押す。

「皆んなの努力の甲斐あって、六月には二年になった子達と深谷だけでようやく一勝できました。あれはめちゃくちゃ嬉しかったですね」

あれが野球人生一番の思い出です、と笑った。

「そんなに頑張っていたのに、どうして辞めるに至ったんだ」

「頑張ってリハビリしてきた右腕が、七月になっても治らなかったんです。

それどころか完治の見込が四年或いは五年先にずれ込むだろうと、再診の時に診断されました」

「五年……そんな」

指令長は半年前に見せた時の様な、真っ直ぐな面持ちでこちらを見据える。

「それ聞いた時は絶望しか無かったですね。ずっと辛いリハビリ頑張ってきたのに全然治ってないだなんて。

療養に個人差があるのは知ってましたけれど、あの頃の自分にはそれが受け入れ難かった」

「高校生なんてまだ子供だ、当然の反応だよ本庄」

指令長のその肯定がありがたくて、少し涙が出そうになる。

「やっと手に届きそうなプロへの道も閉ざされて、自分は一体今迄何の為に野球やってきたんだろうって。

頑張ってきたことが全部馬鹿馬鹿しくなったんです。

だから八月を待たずに一人で引退しました、本当野球から逃げる様でしたね。もう関わりたくないって感じで」

正直あの頃のことを思い出すだけでも辛い、自然と視線が下向きになっていく。

「それだけで終われば良かったんです。でも一年前に退部した連中に野球投げ出して辞めたのが知れ渡ってしまって。

もう毎日あること無いことばかり言われましたね」

プロに行けないのは因果応報。その言葉が一番訳分からなかったと言えば、弱い犬ほどよく吠えるものだと指令長は忌々しげに一蹴した。

「彼らの言うことは今でも理解できません。

ですが元監督を辞任に追いやった人間を憎んでいたら、誰しもこんな風に言いたくなるんでしょうね」

こうして大人になれば分かることも増えてくる。しかし理不尽な言い様は今でも許すことは出来ない。

「そういうのを深谷が殆ど庇ってくれてたんです。けどまあその、彼は十月末時点でプロ入り決まっていた訳でして」

自分が辿り着けない場所へ相棒は先に行ってしまった。平穏な人間関係にも波風が立たない訳が無い。

「荒れたのか?」

「受験勉強に走ったので然程は。ただ会うと八当たりしてしまうので、二月の合格発表までまともに顔を合わせませんでした。

一年生の頃から支えてくれた恩人に対して、自分最低ですよ本当」

人間仕方ないこともある、と指令長は溜め息と共にその言葉を吐いた。

「それから指令長と本格的にキャッチボール始めるまで、殆ど野球やってませんでした。

仲間内でちょろっとキャッチボールする位ですね」

で、今に至りますと話を締め括った。しかし指令長はまだ何かしら言いたげである。

「もう腕が治ったんだろう? だったら尚更社会人野球に行って試してみる価値があるんじゃないのか?」

誰ももうお前を妨げないんだから。自分の才能と可能性を信じてくれる指令長からの、この言葉は重い。

泣きながら希望を託してくれたあの夜のことを思い出し、ついその期待に応えそうになる。

でもそれでは昔の自分のままだ。自分の人生は誰かのものでは無く、自身が歩いていく為のものだから。

「もし時間が戻せたら、行ってました」

「本庄」

「あの日怪我をしなかったら、無理して投げ続けなかったら、腕が痛いのをずっと我慢しなかったら、僕は野球ずっとずっと続けてました。

だって野球が好きだからなんです。

本当は諦めたくなかった。辞めたくて辞めたんじゃなかったのに。

どうして……どうしてこんなことになって……」

恥ずかし気も無く、膝を抱え声を上げて泣いた。指令長は何も言わずに自分の背中や頭を優しく撫で続けてくれる。

「おいで本庄」

やがて促され、指令長の腕の中へ素直に体を預けた。

ずっと抑えてきた後悔と悲しみとがない交ぜになり、既に手遅れの現実を前に勝手に溢れ出る涙が止まらない。

幼子の様にただ、彼に縋りつき涙が枯れ果てる程に泣き続けていた。





一体どの位泣いただろう。人間泣き過ぎると頭痛がするもので、頭の奥で鈍痛が止まらない。

「沢山水分取った方がいいよ、あとミネラル」

体を離してまず渡されたのが熱中症予防の塩タブレットと水ボトルだった。相変わらず謎の準備の良さである。

盛大に鼻をかんだ後、遠慮なくそれらを頂戴する。一気に空けた水は、体の隅々まで行き渡る様だった。

少しずつ鈍痛が緩和されていくようで、ようやく一息つく。

「人前でこんなに泣いたことは今迄無かったです」

「それはいいものを見た」

役得だと呟く指令長に、なんですかそれはと返す。

「もしもだ、本庄。親会社の名門社会人チームが声をかけてきて、大宮勤務のままで野球やらせてくれるって言ったらどうする?」

「魅力的ですね。でもやりません」

「お前……なかなか強情な奴だな」

「そういうのとは違うんです指令長。自分が本当にやりたいことが分かってしまって」

どういうことだ、と彼は首を傾げる。

「自分はデータ分析の方が割と向いていることに気づいちゃいまして。

さっき高三の時にデータ野球やって初勝利したって言いましたよね。実はあそこから十連勝してるんですよ」

「は? なんだと!」

「勿論皆んなの練習の成果が発揮出来たおかげですが、当時の采配はそれに合ったレベルで上手く機能していました。

もしかしたらそういう裏方仕事が向いているかなって、そう考える様になってきまして」

困惑する指令長は額を押さえながら、つまりあれかと言葉を模索している。

「スコアラー向き、だな。今やってる仕事そのもの、そういうことか」

返事の代わりに照れ笑いで応える。

「だから学部も情報理工学科選びました。早めに気づいて良かったです」

「……思った以上に偏差値高いじゃないか本庄」

「東大出の人にそんなこと言われても嫌味にしか聞こえませんよ」

うるさいな、と横を向く姿がいつもの指令長らしくていい。

この人にあまり優しくされると心が溶けてしまいそうになるので、出来ればこの位のやりとり程度がいい。


そこでやっと気づいてしまった。


自分がどれほど迄にこの人に想いを寄せて、焦がれているのかを。


「さて、お喋りはここまでにして。そろそろ寝ようか」

そう言ってベッドに促されて元の位置に横たわった。彼は丁寧に掛布を整え、部屋の灯りを落とし読書灯だけ残した。

眼鏡を再びサイドボードに置いた彼の背中に、その一言を告げた。

「この前みたいなキスして下さい。そうしたらもう寝ますから」

ポーカーで大枚のレイズを張った様な一言に彼はどんな反応を示すのか。

振り返る顔は逆光で見え辛いが、どこか困った笑顔を浮かべる姿に見えた。

「そうやって大人をからかうんじゃないの」

ね、と窘めながら自分の前髪を撫でてくる。

その指通りが心地よくて、もっと彼に触れて貰いたくて彼に触れていたくて懸命に懇願する。

「お願いです、指令長」

その言葉が彼の中で引き金になったのだろうか。前髪を撫でる右手はやがて左耳に触れ、耳たぶを軽く揉む。

「ちょっと、くすぐったいですってば」

無防備になった自分の口元に、指令長は無言で顔を寄せた。柔らかい薄明かりの中で、一頻り時間をかけた口付けが交わされる。

最初は軽く、次第に深く嬲るような舌遣いで秘めた甘い所を探ってくる。時折ずらした口唇の端から漏れる嬌声が、

自分で想像もつかない程の色気を含んでいてなんだか恥ずかしい。指令長は一度緩やかに口唇を離して、軽く頬や瞼に口付けを落とす。

つい名残惜しそうな視線を彼に向けて、右手で口元を隠した。

「もう、指令長。相変わらずエロいですよ」

「どっちがだ」

その右手を取り、彼は敬愛を込めた様な仕草で手の甲に口付ける。

この手から無数の変化球が放たれるのがいつも不思議でならない、そう酒の席で語っていたのをなんとなく覚えている。

「俺の知らない誰かに、お前の速球を受けさせるのは嫌なんだ」

指令長が知る筈も無い自分の過去の男を指摘された様で、なんだか後ろめたくなる。

独占欲を掻き立てる右手だと語り、愛おし気にまた口付けを落とす。幾つかある豆の潰れた跡やボールを挟む関節の曲がりなど、ただ醜いだけだ。

なのに彼はそんなものにさえ魅力的に感じているらしい。

絶対誰にもやらない、熱に浮かされた様な口ぶりで呟きながら右手に頬ずりして、今度は掌に無数の口付けを落とす。

何を思い余ったのか、指令長は人差し指を口に含んで節くれた指に舌を這わせた。次は中指、そして薬指。

一本一本丁寧に音を立てて吸い上げられてしまえば、やがて小さな声が漏れ始める。

「あ……やだ」

紅潮し口を半開きにして、つい熱っぽい声が上がる。そのまま更に敏感な指先をふやけるまでしゃぶり尽くされ、

指の間までも執拗に舐め続けられると堪らなくなり、眉根を寄せて歯を食いしばりながら仰け反る。

その姿が指令長の情欲を掻き立てたのか、なかなか指から口唇を離してくれない。

「アカギ、こっち向いて」

右手への執拗な攻めを止めた指令長は、名前を呼んで上を向く様に促してくる。

涙を溜めて快楽に抗う顎を優しく捉え、今一度口唇を重ねて口内愛撫を再開してくる。

快楽を求めたくてつい積極的に舌を絡めてしまうと、応える様に彼は舌の根元にある性感帯を刺激してくる。

興奮と共に唾液腺から溢れ出るそれを絡め合い飲み込み、また刺激し続けられる。このままでは、もう。

そんな兆しを察してか、指令長は仕上げとばかりに舌を吸い上げて口唇を離した。

「はい、おしまい」

この前より上手じゃないか、と意地悪く笑う。そして浴衣の袖で口元を拭うと、自分の上から身体を離して隣に横たわった。

こちらは未だ動悸が激しくて快楽の余韻に困っているというのに、大人の余裕である。

「あとちょっとしか休めないから、しっかり寝とけよ」

こちらの都合も考えずにあっという間に読書灯を消され、部屋は暗闇に包まれた。

足元の非常灯だけは残されているので、なんとか手洗いには辿り着けた。用足しを済ませて、洗面で手を洗う。

割と好きな香りのハンドソープなので、つい多めに出してしまう。

「何なんだよ、もう」

こちらから仕掛けて少しでも彼の真意を探ろうとした自分が愚かだった。賭けは失敗して先日同様にやられ損である。

もう少しあの手練手管を見抜けるまでには成長したい。温水でハンドソープの泡を流し終わり、先程まで散々玩具にされた右手をしげしげと見つめる。

あの愛おし気に指を舌で愛撫する様を思い出してしまい、次第に下半身辺りが熱くなってきた。いかんやめてくれ、今はどうか勘弁して欲しい。

「あーもー何なの本当に」

記憶を打ち消す様に蛇口を冷水に切り替え、何度も顔を洗った。





明け方、音も無くベッドを抜け出した出水は隣で惰眠を貪る同衾相手の寝顔を確認してバスルームに忍び込んだ。

そしてシャワーを浴びつつ、自分を慰める行為にひたすら没頭する。

脳裏に焼き付けた愛しい部下の嬌声と艶かしい仕草や息遣いに熱っぽい目線、仔細を思い出しながら欲望のまま手を動かして生産性の無い営みを繰り返す。

成した後の虚しさは、想像以上に絶望をはらんでいた。

「何であんなことを言ったんだ俺は」

確かに彼の右手は自分だけのものにしたい、どんな手を使ってでもあれだけは譲れない。

だが現時点であそこまで言うのは早すぎたような気もする。

どうか彼が起床後には忘れていて欲しい。情けない溜め息と共に、足元に溜まった体液を跡形も無く流し落とした。





午前九時過ぎの山陽新幹線で新山口駅へ向かう双子を改札前で見送る。

せっかく広島まで来たのだから、実家の山口に帰って両親に甘えてこい。そんな指令長の計らいで、双子は逆方向の新幹線に乗ることになった。

「指令長、お世話になりました! 本庄さん、またの!」

今朝も変わらずテンションの高い双子は大きく手を振って改札を通り、コンコースの階段へと消えていった。

嵐の様な二人だったが、昨日一緒に過ごせたことは楽しいだけでは無く貴重な体験だった。

程なくしてジョウ君から「両親を説得するから絶対京都に来てくれ」という内容のラインが入ってきた。

こうして野球のスタートラインに立つ子もいる、早いか遅いかなんてことは無い。なんとか彼を後押ししたい気持ちで一杯だ。

「それじゃあ指令長、僕らもぼちぼち帰りますか」

「本庄、君は先に帰りなさい。私は寄る所があるから」

昨日の報告書の完璧な出来からして、寄り道が仕事関係で無いのは一目瞭然である。となると、心当たりのある行き先は一つしかない。

「宮島行くんですよね」

指令長の驚愕の表情からして、どうやら当たりらしい。

「何故分かった本庄」

「大宮にいる時からずっと行きたいって喚いていたじゃないっすか」

別に喚いてなどいない、と生真面目に眼鏡のブリッジを抑える。

しかし物凄く照れているのがまるで隠し切れていないのが、またいい。

「べ、別に着いて来なくてもいいからな。お前は昨日も行った訳だし」

この口ぶりには、寂しいから着いて来て欲しいなーという甘えが含有されている。

この、顔は美人で中身はおじさんの扱い方が段々と分かってきた、これには自信を持ってもいい。

「史跡の写真とか沢山撮ったりするんでしょう? 付き合いますよ。

そうですねー『うえのの穴子飯』で手を打ちましょうか」

「それはお前が食べたいだけだろう」

「指令長だってそうでしょう?」

まあな、と満足そうに口角を上げる。

「じゃあ決まりですね。指令長は帰りの切符を変更して下さい、僕はそこの手荷物預かりで手続きしてきます」

やたら勝手が分かる同士なのでとでも動き易い。二日連続の宮島だが、今日はどんな景色を見せてくれるのだろうか。

広島は今日も爽やかに晴れ渡り、天高く秋晴れの青がどこまでも続いていた。








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