桑原仁・捏造大会:昭和一桁から40年代まで


ギャンブル大好き。だから貧乏なんだよ桑原家。

・昭和一桁生まれ(今現在を80前後と計算して)出身は東京、たぶん。碁好きの新聞記者の父と実家が金物屋の母との間に生まれる。兄弟は妹が一人。母の実家が分限者で多少は援助があった模様、なので父親の(低)給金の割りには何不自由なく過ごしていた。菓子にはこと欠かなかった、というのがいい証拠。

・父の影響で碁を楽しむ趣味を持ったが、棋士になろうという情熱までは届かず、むしろ世間の子供同様に、海軍に憧れた少年時代を過ごす。
因みに、父の勤めていた新聞社は、本因坊戦のスポンサー(昭和12年より)だった。本因坊戦の設立には、父も末端記者ながらも東奔西走し、関わっていたとか。なんとも因果なものである。

・やがて中野高等無線卒の後、昭和19年通信兵として重巡「愛宕」に配属。戦時中も先任将校の碁の相手をしていた事もあり、多少はたしなんでいた模様。ただし、よくわざと負けていたと本人は豪語する。ほんまかいな。
巡回慰問に来た「棋道報国会」の棋士とも打った事があるらしい、棋譜は残っていないがそこそこの勝負をしたという。
同年10月末パラワン水道にて「愛宕」は撃沈され、被弾した衝撃で海に放り出される。運良く駆逐艦「朝霜」に拾ってもらい九死に一生を得るも、瀕死の重症を負う。大和はすぐ近くにいたにも係わらず、重油のみまくったし、骨折れまくっていたので、んなもの見る余裕すらなかったわいと言い張る。

・パラオの病院に収容された後、終戦は帰還した佐世保でむかえる。2週間もしないうちに疎開先の長野から母が妹を伴い、病院まで飛んできた。

・半年後右手がようやく動くようになり、父の紹介で、生涯の師・高柳の内弟子になる。いうても、年齢がすぎているので内弟子というよりは、ほぼ通い弟子に近かった。

まず風呂上りに抜け毛を気にする段階。

・昭和22年には日本棋院の復興に奔走する若手の3番手までにつける。遅咲きながら、相当強かったようだ。
・この辺時代があいまいですが、日本棋院と関西棋院の争いにまで首をつっこんでいた模様。意外と世話焼きな仁くんです。
後退が始まったのもこの頃。あそこまで見事なヘアスタイルになるには、この頃からの抜け毛は最早必然ともいえる時期です。

・昭和26年の春、懇意にしていた新橋の小料理屋の娘「タマヨ」と結婚。一応、恋愛結婚。彼女との間に、一男一女を授かる。長女は彼ににて気が強いらしい。そして顔も似ている‥うあああ。

髪を上げると若すぎ

・新婚時代は、とにかくお金が無くて大変だった。タマヨの実家から工面してもらう事もしばしばだったとかなんとか。昭和40年代に入っていざなぎ景気の兆しが見えても、いまだ彼らは貧乏だった。でも煙草と麻雀はやめられなかった

恐妻家。

・某年の正月は、仲間と大晦日からうっかり徹マンしてしまい結局帰宅できなかった。昼過ぎ自宅に着くと、嫁さんが物凄い形相で右手に箒を持って玄関で待っていた。まあ案の定一方的ストリートファイトになってしまい、正月早々肋骨1本にヒビが入る。哀れ。後に「あの時の彼女は、愛宕の鬼軍曹より怖かった」と述懐する。

・ちなみに二人の子供の為にとっておいたお年玉は、最後の荘にぶちこみ、綺麗にスッてしまう。それではあまりに可哀想なので、不本意ながら後輩の柿本にお年玉と電車賃分を借りて、かろうじて父親の面子を保った。(柿本には口封じの為にオールモルトを1本贈りつけたが、元来口の軽い彼なので、わりと色んな所で酒の肴にされている

暗に「ついでください先生そのかわいい手で」と催促する若輩者塔矢行洋17歳様。このエロ未成年め!!!

・正直、酒はあまり強くない。コップ酒1杯で千鳥足なので、海軍にいた時は苦労した(こっそり菓子を配給してもらったりした)。どちらかというと、食べる事に執着を示す。偏食は無い、好物は鰻とそばがき。若輩の頃、師匠に初めて連れて行って貰った銀座の鰻屋のが泣くほど旨かったのが印象に残っている。地方で手合いがあった時(特に名古屋とか)は、迷わず鰻屋を探す鰻道楽者。
・あと、酒の席の礼儀に非常にうるさい。なので、宴席では結構まめ。あれだ、幹事やらせたら最高かもしれない。

・初タイトルが本因坊。40代前半くらいの話、賞金は全て借金の返済に。残ったお金で妻に電気釜を買ってあげる。桑原の実家にタイトル獲得の報告に訪れた際、父は病の床に伏していたという。報告の後、何か満足したように父は3日後、この世を去る。享年66歳。

なんだこのまるで見てきたかのような捏造っぷりは。正直、すいません。